規則の確認
件の規則は、高野連のホームページにちゃんと掲載されている。
17.バントの定義
バントとは、バットをスイングしないで、内野をゆるく転がるように意識的にミートした打球である。自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルにするような、いわゆる“カット打法”は、そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)により、審判員がバントと判断する場合もある。
(規則6.05(d))
法律家なので、法律の要件事実的にバントの要件を確認すると
(1)バットをスイングしない
(2)内野を緩く転がるように意図的にミートした打球
の二つの要件をいずれも満たしたものである。
そして、さらに、「自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルにするような、いわゆる“カット打法”」について、バントの判断指針が示されているが、そのときに判定対象となるのも
(3)そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)
であり、バットのスイングの有無であることが分かる。
裏を返せば、自分の好む投球を待つために意図的にファウルする場合でも、バットをスイングしていれば許容される(ファール性の当たりでスリーストライク取られない)のが、高野連のルールなのである。
千葉君の打法の確認
早速、千葉君の打撃を見てみる。
文字媒体で情報を仕入れている間は、もっと際どい打法なのかと思っていたが、これは素人の筆者が見てもバットをスイングしているように見える。そして、千葉君の個人成績が公式に開示されていないので、2ch情報に頼るが、鳴門戦が終わった段階で以下のようになっている。
遊安 四球 遊ゴ 左安 左安
二安 三振 三ゴ 右3 中安
四球 中安 四球 四球 四球
打率.700 出塁率.800
「痛いニュース」より
2ch情報が信用できる前提に立てば、立派な成績だ。カットでファールにする「だけ」が能の選手でないことが分かる。
ルール上は、千葉君の打撃は「シロ」としか言いようが無いのではないか。
不可解な“大人の事情”
これに対して、大会本部、審判部は、卑怯な作戦に出た。
実は19日の準々決勝の後、大会本部と審判部からカット打法について花巻東サイドに通達があった。「高校野球特別規則に『バントの定義』という項目があります。ご理解ください」。
「バントの定義」とは「バントとは、バットをスイングしないで、内野をゆるく転がるように意識的にミートした打球である。自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルするような、いわゆるカット打法は、そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)により、審判員がバントと判断する場合もある」というもの。
千葉のカット打法はバスターのような構えから三塁側にファウルを打つが、これがバントと見なされる可能性があるということか。2ストライク後にファウルを重ねればスリーバント失敗で三振となる。大会本部、審判部は「バントの定義に触れるんではないか、ご理解ください、分かってくださいということです」と説明したが、この通達により、千葉はカット打法を封印せざるをえなくなった。
日刊スポーツ「花巻東・千葉 カット打法できず号泣敗退」
野球の審判は、訴訟で言えば裁判官であり、試合中においてその判断は絶対だ。プロ野球でも、あとで誤審を謝罪することはあっても、試合中の審判の判断が事後的に変わることはないのではないか。まして、高校野球では大会主催者は絶大な力を持つ。主催者、審判がすべきなのは、ルールに従って試合中に千葉君の打法を審判することであり、「理解」という名前で圧力をかけ、打法を封印させることではない。これは自らが判断を迫られる厄介な問題を回避し、試合の当事者である花巻東高校に、面倒を抱え込みたくないという主宰者の意図を「忖度」させ、「自主的」に諦めさせるという、実に卑怯なやり方だ。もっと穿った見方をすれば、「ルール上はバントにならないが高校生らしくない」という意図が裏にあるようにも思える。
本件で、一番卑怯なのは、間違いなくこのような大人の事情で「自主的に諦める」圧力をかけた人々だろう。
監督は己を貫徹し、千葉君を守るべきだった
そして、次に批判されるべきなのは、花巻東の監督だろう。監督は、千葉君に“カット打法”の練習をさせ、それをチーム戦略に位置づけ、甲子園まで来た。そうなのに、主催者側のルール外の場外乱闘的な「理解」に屈し、千葉君が(恐らく、監督の指示で、血のにじむ努力をして)積み上げてきた打法を一瞬で無にした。これは、地方大会や本大会で花巻東に破れたチームに対する背信行為でもある。監督は自分の筋を通せなかった責任があり、それらのチームや千葉君に土下座して謝るべきだろう。
この件を見ていると、今はスターとなり、すでに引退した松井秀喜が甲子園球児だったときの「五打席連続四球問題」というのを思い出す。しかし、明徳義塾高校の監督はピッチャーに松井の敬遠を指示し、(僕の記憶によれば)観客のブーイングにも似たどよめきの中でもその方針を貫徹した。もっとも、あのときも、試合後にルール上は全く問題ない敬遠について、「高校生らしくない」「正々堂々勝負すべき」という批判が巻き起こったが。筆者は、打撃力が松井に偏重している星陵高校の弱点を見抜き、冷徹な作戦で押さえ込んだ明徳義塾の監督を評価しているし、それは卑怯でも何でもないと思うのだ。
今回も、花巻東の監督は、己が監督として積み上げてきたものを貫徹し、世に問うべきだったのではないだろうか。チーム戦略を失った花巻東高校は、準決勝で延岡高校の横瀬投手の好投の前に撃沈した。千葉君も得手を禁じられ、見る影もなかった。この辺の状況は
「花巻東・千葉翔太クンのカット技術を「ご理解」によって封印させた大会本部の圧力が理解不能な件。」
が活写している。残念なのは、花巻東打線の沈黙が、相手投手の力によってねじ伏せられたものなのか、主催者・審判の圧力による戦略的・精神的動揺によるものなのか、判別がつかないことだ。リンク先にも書いてあるが、観客が見たかったのは、トリックVS正攻法のぶつかり合いだったのではないだろうか。
この一件から見えるもの
鈴木大地のバサロスタート、スキー・ノルディック複合の活躍など、日本のアスリートが新技術で頂点を極めると、不利益なルール変更がされてきたことを何度か見ている。しかし、所定の手続でルールを変更するのはダメとは言えないし、「卑怯」な作戦を禁止するのに最低限必要なことだろう。しかし、大会の主催者はそれをせず、ルール外の圧力で千葉君を禁圧した。ルールの運用に責任を持つ側がルールによらないのはルールに対する冒涜だし、結局、主催者が「ルールブックではなく、オレがルール」
と言っているようなものだ。
実は、こういう様は、高校野球に関わらず、日本社会でよく見られるように思える。そして、こういうやり方が非民主的な「寄らば大樹の陰」「知らしむべからず よらしむべし」の文化を作り、次世代が創意工夫や新たなチャレンジをする芽を摘んでいるのではないだろうか。これこそ、この件から垣間見える問題の本質のような気がしてならない。
2013.8.22 15:45追記
上記の高野連のカット打法特別ルールが出来たきっかけになった当事者が千葉君の打撃を「問題なし」と証言している記事を見つけたので引用しておきます。
カット打法“禁止” きっかけは巨人・阿部の父「バントだ」(スポニチアネックス)
特別規則17項が設けられるきっかけとなったのが72年夏の東洋大姫路の9番・前原正弘選手だ。
前原は千葉と同じくレギュラー最小兵の1メートル66。ファウルで粘って四球を選ぶカット打法は兵庫大会(12打数無安打10四球)からバントか否か議論を呼び、迎えた習志野との1回戦。初回2死一、二塁から2度カット打法でファウルした。
1度目に習志野の捕手・阿部(巨人・阿部慎之助捕手の父)が「バントだ」とアピール。2度目に郷司球審から「フォロースルーをするように」と警告された。警告後の前原はカット打法はせず、2打数無安打で四球もゼロだった。
これを機に17項が設定され、92年センバツ決勝で東海大相模の吉田(元近鉄)が帝京のエース三沢(元巨人)の投球をカットし、スリーバント失敗に取られた。
▼阿部東司さん(58) あの時はバッターがグリップを握った時、右手と左手が離れていてバントのように打ったから審判に言った。今回の千葉君は両手を離して構えていたけど、振る時には両手がしっかりくっついて打っていた。だから、この子はあの時と似てるけど、ちょっと違う。問題ないと思って見ていた。
▼前原正弘さん(59) 彼の悔しさはよく分かる。あの打法は選球眼やバットコントロールが大事で誰もができるものではない。私と同様、小さい体で何ができるか努力してレギュラーになった。高野連にはもう少し大きな目で見てほしかったし、準決勝の前に警告するのもどうか。私が郷司さんに注意されたのは甲子園初打席ですから。
2013.8.23 11:30追記
トラックバックを頂きました。「あれはバントだ」と堂々の論証。議論が議論を呼んで面白いですね。丁寧に書いてあります。こちらもご参照下さい。念のため言っておくと、審判が責任をもってバント判定することについては異議がありません。僕自身書いてますが、スポーツでは、試合中の審判の判定はその限りで絶対ですから。
花巻東・千葉君のカット打法(故意のファール打ち)はバント!!法律素人なただの主夫の意見
それにしてもスイングの定義が定まっていない、というのは面白いですね。空振りストライクとの関係では「ハーフスイング」という概念があるので、その限りでは「スイングとはハーフスイングを超える動作である」ということになりそうだけど、それをバントの場面で当てはめると、千葉君のスイングはそれをはるかに超えているようにみえる(従って空振りすればストライクになる)。しかし、その同じ動作について、ボールが当たったときは「スイングなし」と見ることがあり得るのか、という論点で、法律的な言い方に言うと「スイング概念一元説」と「スイング概念多元説」の論争になり得るのかもしれません。この方はそこは判断せず「審判裁量説」を前面に出していますが、主催者と審判団はそうやって下駄を預けられるのが嫌だったのでしょう。その辺の見解は一致しているように思われます。