手塚治虫文化賞大賞は「へうげもの」、新生賞に市川春子
コミックナタリー
朝日新聞社が主催する、第14回手塚治虫文化賞の受賞作が決定。マンガ大賞には、モーニング(講談社)にて連載中の山田芳裕「へうげもの」が輝いた。
「へうげもの」は物欲まみれの型破りな茶人・古田織部を通して戦国時代を描く独自の視点が高く評価され、受賞に至った。山田は「これからが織部の真骨頂。賞を励みに精進を重ね、最後まで描ききる所存」とコメント、佳境を迎える物語の執筆にさらなる意欲を見せた。
僕はこの漫画が大好きなので、受賞したことは素直に喜ばしい。
僕は子供の頃からコーエーの『信長の野望』シリーズをそれなりにやってきた。マニアではないが戦国時代好きだと思っている。このゲームシリーズに出てくる古田織部は能力は低いが割と高価な茶器を持っている武将だ。古田織部がどんな人かなんて全く分からないので、捕まえて首を切るか、家臣にした後に茶器を没収して、茶器だけ有効活用する位置づけになってしまう。『へうげもの』は、そういう存在に過ぎなかった古田織部に生き生きとした個性を与えてくれた。最初の頃は、読んでいて、頭に電気が走るような心地よい衝撃を受けた。
(脱線:『信長の野望』はドラマ等である武将に注目が集まると次の作品でその武将の能力が飛躍的に向上する傾向がある。次あたりでは古田織部も政治力あたりが急にアップするかもしれない)
この作品を読んでいて僕がある意味「感動」したシーンは、本能寺の変のときに坊さんたちが財宝を持ち逃げするところと古田織部が本能寺の焼け跡で信長の遺品の茶器あさりをするところだ。史実上、本能寺にあったはずの茶器がどれだけ後世に伝えられてるのかは知らないが、実際の歴史では(織部がやったかは知らないが)、結構、位の高い人がこういうことをやった可能性はかなり高いのではないかと思う。そういう妙なところでのリアリティーがこの作品の魅力なのだ。
僕が『へうげもの』を読んでいて一番感動した場面の一つは、織田信長が茶器の「大名物」と呼ばれるものを好んで集めたことに関する描写。僕なんかは、信長は「大名物」が実際に凄い茶器だから集めていたのだと思っていた(し、それ自体はその通りだ)。しかし、作中では、信長は茶の湯という文化に「格付け」という概念を持ち込み「大名物は土地よりも高価」という価値観を作り出すことで家臣をコントロールする様子が描かれる。そして、その様子はどちらかというと茶の湯の一番深いところを理解しない田舎者の粗野な所行として描かれる。さらに侘び茶の精神の体現者である千利休が裏で糸を引いて本能寺の変が起こる、という筋書きの伏線にすらなっている。
今まで信長の茶器好きについて疑問を持ったことはなかったし、戦国時代の小説によく出てくる、戦功を上げた滝川一益が茶器を望んでも信長に認められず下野一国「しか」もらえなかった、という逸話は「茶器って高価だったんだな−」という印象しか与えなかった。でも、芸術や文化の観点から見れば、茶器の格付けは確かに馬鹿げた行為だし、そういう価値観は、天下が平定されて戦争に勝っても家臣に与える土地が無くなる事態に備えて信長が作り出した価値観だった、という説明はなるほどなー、と思わせるものがあった。
最近、戦国時代ものの漫画で僕が好きなものに『センゴク』というのもある。『へうげもの』にも『センゴク』にも共通していえるのは、今までの歴史小説や通俗的な戦国時代の歴史書が描いてきた型どおりの戦国時代像(こういう通俗的な時代像は最近の研究では「誤り」とされることも多い)やNHK大河ドラマの堅苦しい戦国武将像を打ち破る新境地を開いている。半分はフィクションでありながら、半分はかなり詳細な研究をベースにして、歴史上の人物を生き生きとした生身の人間として「解放」する力を持っている。『へうげもの』の物語の方は終盤の山場にさしかかりつつあるが、この漫画のためだけに「モーニング」を買ってしまうくらい好きなので、コンテンションを保ったまま最後まで突き進んで欲しい。
ラベル:へうげもの 手塚治虫文化賞大賞