1 本の趣旨と実際の中身の矛盾
この本の趣旨はタイトルにも現れているが、弁護士に依頼しなくても労働者が自分一人で主に労働審判手続きを利用して使用者に残業代を請求し、弁済を受ける事ができる、というものである。一人でできるというからには、一冊読めば、自分の残業代を正確に計算できるようにならなければ金を出して買う意味がない。
ところで、残業代の計算方法は非常に大ざっぱに言うと
@基礎時給×A割増率×B時間外or休日or深夜早朝労働時間
となる場合が多く、@〜Bのそれぞれについて法令の条文や当該労働者の労働契約の定め方が絡む。
@基礎時給一つとっても、労働基準法施行規則19条に計算の仕方が定められており、特に月給制の場合は計算がややこしい。単純化すると賃金÷所定労働時間なのだが、多くの事例では、労働者は割り算の分子となる賃金についてどの項目を算入して、どの項目を算入しないか知らない(「基本給」をいれる、という簡単なものではない)。また、割り算の分母となる自分の所定労働時間の計算方法も知らないため、計算ができない。これを正解に導くのが専門家の役割だろう。時給制、日給制でも、月毎に手当が支払われているような場合には同じ問題が発生する。
ところが、この本にはそのような労働者がどうやって実践的に自らの基礎時給を計算するのか、その方法が記載されていない。分子に入る賃金とそうでないものの区別に全く言及されていない。所定労働時間の計算ができない場合にどのような「仮の所定労働時間」を設定するのか、また、労働審判でどうやって使用者側に所定労働時間を尋ねるのか、言及されていない。従って、多くの読者は結局、自らの基礎時給に到達できないのである。
また、各種割増賃金の加算がある場合と無い場合の区別も書かれておらず、A割増率も定まらない。「労働時間」とは何なのか論じずに話を進めるからBの時間も労働者が自ら正確な算出できない。
結局、この本を読んだ労働者は、自らの残業代について、計算が出来ないか、間違った残業代の計算をせざるを得なくなる可能性が高いように思われてならない。
なお、残業代の計算については、私は「給与第一」(リンクはこちら)という計算ソフト(エクセルシート)を作っており(もちろん無償)、これを使えばこの社労士さんに頼らず1人で残業代の計算を、かなりの精度で行えることも述べておく(もちろん万全ではない)。
2 結局1人ではできない
一方、著者は読者にいくつかの“成功事例”を結果の金額だけ示しながら「弁護士に頼まなくても自分で争える!」などと勇ましく言う一方で、返す刀で以下のように述べる。
私は、労働審判の申し立てに代理人は必要ないと思っています。弁護士に頼まなくても十分に申立てはできますし、最後まで争えます。<改行>ただ、大事な場面でアドバイスを受けられる人は必要かもしれません。たとえば、労働紛争に詳しい社労士や経営コンサルタント、紛争を経験している実務家などです。代理人ではありませんので、弁護士に依頼する時のような大きな負担はかかりません。(p45〜46)。あれ?1人でできるんじゃなかったの?
ちなみに、著者の社労士さんが代表者を務める社労士事務所は、残業代請求の特設ページを持っているが、労働局のあっせん制度の代理(これは社労士にも代理権が与えられている数少ない制度だが、強制力が無く、弁護士の立場からするとあまり役に立たないので利用しない)で着手金9万4500円、成功報酬は解決金額の10%となっており、これは、法テラス(日本司法支援センター)の代理援助制度を用いて弁護士に労働審判の代理を依頼する場合の金額(着手金10万5000円、報酬は解決金額の10%+消費税分)とあまり変わらない。法テラスは弁護士費用を立て替えて支払ってくれる上、無利息で分割して返済できる利点もある。ただし、法テラスの代理援助制度は社労士には利用できない。
この社労士事務所のページには「労働審判の補佐」という項目もあり、この本の「アドバイス」に対応するのかもしれないが、料金は書かれていない。「労働審判補佐」や「アドバイス」はあっせんの代理より安いのだろうか?
いずれにせよ、社労士は労働審判の代理をできないのだし、労働審判は審理の場でのやりとりがものをいう。期日に代理人として出席してくれないのなら、依頼する意味はあまりないだろう。
3 労働審判を奨めるのに、労働審判の中身がリアルに書かれていない
上記のように、社会保険労務士は、労働審判に代理人として出席できない。この著者も、実際に労働審判期日においてどのようなことが行われているかは、書物と、依頼者の口づてによって情報を得ている可能性がある。そのせいか、具体的な期日に向けた箇所が、あまり有益なアドバイスになっていない。仕方がないので、身だしなみに注意しろ、などとあまり本筋と関係ないことを述べたり、反論メモの例(p165)に書いてある反論が「言われたら言い返す」のレベルで、残業代請求事件の要件事実(訴訟や労働審判で攻防の対象となる事実)とはあまり関係のない事になっている。同僚の陳述書に書かれている事項(p110)もほとんど無意味であり、かつ、現役の同僚を事件に巻き込むことにより、その同僚が被るかもしれない不利益について何も書かれていない。
4 中途半端な本を頼りに一人で労働審判起こしたら使用者側に著者がいる可能性
社労士さんの仕事の基本は使用者側に立って、就業規則を作ったり、給与計算や社会保険の手続きを支援したりすることだろう。この著者の社労士さんも、本の裏の方に書いてあるプロフィールを読む限りは顧問先企業を持っているようにも思える。少なくともホームページで使用者側を勧誘している。
この本の特徴の一つは、中途半端な内容を頼りに勇ましく一人で使用者に立ち向かうと、最悪、その使用者のバックに著者が付いていて、揚げ足を取られて撃退されたり、残業代を値切られてしまう可能性すらあることだろう。それを意図してこの本を作ったのならなかなかの策士だと思う。
5 調停案万能主義?
そして、著者は労働審判手続きで「審判」を受ける事を良しとせず、審判委員会から出される調停案について、「調停案が出されたら、それを承諾した方が得策だということです。私がかかわった未払い残業代請求では、ほとんどの申立人が調停案に合意しています。」(p197)などと書く。労働審判の実態として和解が多いのは事実だが、中身を問わずに調停案への同意を「得策」とするのは専門家のアドバイスとしてはあまりに無茶だろう。たしかに、和解が決裂して審判になると、訴訟に移行する可能性も高まり、手続きがますます社会保険労務士の手の届かない方にいってしまうのだが(もともと社労士がなぜ業務分野外の労働審判に関与できるのかも私には分からない)。「いざとなったらとことん争うぞ」という姿勢があるからこそ有利な和解も可能になる。和解至上主義に陥れば、最後は使用者側の言い値で妥協するしかなくなる。
6 その他気になったこと
挙げるときりがないのだが、労働事件の問題に絞って代表的なものを。
・ 法内残業を最初から切り捨てており扱いが酷い(p19)。法内残業に恨みでもあるのだろうか?ちゃんと計算すれば労働審判の和解で無視されることも無い。
・ 「管理監督者」の問題を掲げながら、具体的な判断基準について何も触れていない(p28)。
・ 「不当解雇による賠償金」(p70)、「退職勧奨と解雇医師の通告により精神敵苦痛を受けたことの賠償」(p73)がとれる事案なんてほとんどないし、「退職勧奨の問題より未払い残業代の方に主眼を置いて実利的な利益を得ること」(p73)という方針のどこが実利的なのかも全く不明だし、誤りだろう。両方重要。法内残業と同様、単に著者が扱いにくい問題を切って捨てているように思えてしまう。
・ p72の以下のやりとり
社労士「およそ300万円になります」は、都道府県の特定社会保険労務士倫理規定7条あたりで禁止されている「依頼者に有利な結果となることを請け合い、又は保証」する事例ではないのか。実際、労働審判は訴訟移行する可能性があるから使用者から残業代を取れると決まったものではないし、残業代を払わないような企業は常に倒産リスクがある。「必ず取れます。」「少なくともゼロということはありません」はこの倫理規程が無くてもアウトだろう。
Kさん「えっ、そんなにですか?全然考えていませんでした。会社は払いますか?」
社労士「払いますよ、きっと。払わなかった法的手段に訴えましょう。といっても訴訟という大袈裟な話にはなりません。労働審判という方法がありますから。そこまで行ったら必ず取れます。少なくともゼロということはありません」
(受任の際の説明等)
第 7 条
(1項省略)
2.特定社会保険労務士は、事件について、依頼者に有利な結果となることを請け合い、又は保証してはならない。
千葉県社会保険労務士会の例
7 まとめ
要するに、この本を読んで明らかになるのは「一人で残業代を取り戻す」ことの困難性であり、専門家の関与の必要性であり、そしてその専門家とは法律上、労働審判に関与できない社会保険労務士のことではなく、弁護士であるということだ。費用については上記に述べた通りで、弁護士が法律知識を正確に備え、労働審判期日に代理人として出席することを考えれば、弁護士の方がより安いのではないだろうか。もちろん、弁護士費用それ自体が安いというつもりはないが、専門家に依頼するというのはそういうことだし、それによって中途半端な知識で失敗するリスクを大幅に軽減することができる。労働事件専門の弁護士を探しているなら、「日本労働弁護団」で検索すれば、全国の弁護士が見つかる。
結局、この本は刺激的なタイトルで釣っておいて、それとは違う中身を書き、読者をあらぬ方向へと導くものであり、全体としていかがなものかと思う次第である。
はじめまして「未払い残業代を取り返す方法」の著者、特定社労士の松本と申します。
まずは、私の著書に第一法律事務所系の弁護士の先生に書評を頂けましたこと感謝します。
先生の本書への酷評への反論は、挙げましたらきりがありませんので、ここでは割愛させて頂きますが、私は、日頃、日本労働弁護団、自由法曹団に入られている弁護士さん、連合ユニオン東京と連携しならがら、この10年労働民事事件の解決業務を行なってきました。
その活動の中で、特に東京地裁、横浜地裁を主として数多くの労働審判に関わってきましたが、労働審判においては、審判官(裁判官)の了解があれば、審判の場に入り、審判官の許可があれば発言も許されます。私は常に積極的に審判の場へ入れて欲しい旨、書記官に伝えています。ただし、弁護士さんも数が増えたことから、今後は難しくなると推測はしています。
つまり、第一系の渡辺先生が労働審判の経験が豊富なことは予想できることですが、私は、自分が経験したことがないことを、書籍に記載することはありません。
先生も東京へ来られることがあると思います。社労士への嫌悪感がお強いのであれば仕方がないですが、そうでもないのであれば、東京に来られる際、もしお時間がおありでしたらご連絡ください。
季節の変わり目ですから、お身体ご自愛ください。
では失礼致します。
なんでも、事実主張、計算方法まで完璧で(労基署の説明を受け訴状を作成したとのこと)、それどころか、仮執行宣言で、使用者の預金口座まで差し押さえていたとのことです(書記官に教わったらしい)。
一方で使用者側の弁護士に同情をされておりました。
まあ例外的なケースとされていますが、こういう実地体験をした女子のような方が書くとよりよいのかもしれませんね。