2010年03月27日

「個人請負」者を保護する制度が必要だ(2)

 前回の「『個人請負』者を保護する制度が必要だ(1)」を単純に要約すると、今、全産業的に雇用流動化の一形態としての「個人請負」が広がり、その人たちは労働法制による保護を回避されたり、脱法されたりしている現状がある、ということだ。

金融やITでも個人請負
 僕はこういう状況が広がっているのは比較的ニッチな分野だけだと思ってたら、高度な知識を要求される金融やITの分野でも「個人請負」が広がっていることが分かった。
Joe's Labo
個人請負は今後、主流なワークスタイルの一つになる

以前から金融業などでは、高度な専門性を持つ人間などを契約社員や嘱託といった非正規雇用で処遇
していた(正社員の賃金制度には収まりきらないため)。
IT系のベンチャーなどでは能力のある人ほどそういった個人請負方式で働いている傾向があって、
複数社の名刺を使っている人もいる。

 ホワイトカラーからブルーカラーまで、どんな分野でも「個人請負」が広がっているのが日本の状況なのだ。

「個人請負」の野放しは違法行為、脱法行為を激増させる

 上のブログ主の意見もそうだけど、今「個人請負」をはじめとする雇用の流動化に賛成する人の意見は規制緩和によって生じる「負け組」のケアを考慮に入れていないものが多い。
 個人請負について何らかの規制をしない場合、個人事業主は契約条項をしっかり作り自己責任で自分を保護すべき、ということになると思われるが、契約条項で身を守れるのは競合他者に比べて高い能力を持っていて、ユーザー企業に対して強気の交渉をできる人だけだ。しかし、競争原理から言えば、そういう人は少数派。多数の人は「そういう面倒なことを言うなら他にお願いしますわ」と言われるのがオチだ。
 また、前回述べたゼンショーの例のように、今後は、実態は労働者なのに「個人請負」を偽装することで使用者の責任を回避しようとするケースも激増するだろう。責任逃れのパターンは無数にあると思われるが、典型的なのは「買いたたき」と使用者としての安全配慮義務の回避だと思われる。

「個人事業主」は買いたたかれる

 「買いたたき」の事例として今、僕が注目しているのがビクターサービスエンジニアリング事件の事件。これはビクター製の音響機器の修理等をやっている「個人代行店」たちが、修理工事単価の切り下げに対抗するために労働組合を結成して会社に対して団体交渉を申し入れたところ、労働組合法上の「労働者」に該当しないとして団体交渉を拒否された事例だ。組合が団体交渉に応じるよう提訴し、中央労働委員会では勝利したが、東京地裁では、「個人代行店」たちは労働組合法上の労働者ではない、という判決が出て敗訴。現在は控訴中だ。判決を読みたい人は中央労働委員会のホームページを参照して欲しい。このエントリとの関係では蛇足だが、従前の判例ではこういう人達は労働組合法上の労働者性(≒団結権等の労働三権)は問題なく認められていた。
 この判決の法的な評価は横に置くとして、この「個人事業主」たちはビクターに雇われている労働者たちと全く同じ仕事をしていて、かなり拘束の厳しい契約でビクター以外の仕事をするのが難しい状況なのに(判決では逆に他の仕事も「何ら制限されていない」と机上の空論を認定されている)、「請負」単価を切り下げられた事情がある。今の世の中、転職だって容易ではないし、転職するための職業訓練も受ける場所がなければ、その間の生活保障だってない。単価が切り下げられていく事態を打開するために思い切って労働組合を結成したのに、その手も封じられたら、最後に行き着く先は生活破綻しかなくなる。
 しかし、この例に限らず、こういう「個人事業主」たちが、発注元の一方的な単価切り下げによって仕事を続けられなくなって、住宅ローンも払えなくなり、自己破産の末に生活保護になるのが望ましい社会のあり方なのだろうか。経済全体から見てもはなはだ疑問だ。


「個人事業主」が過労死しても企業は責任を取らない

 もう一つ指摘したいのは安全配慮義務の問題だ。典型的には過労死の問題と言っても良いかもしれない。今、日本の職場では、働き過ぎで死んだり、働き過ぎの末にうつ病になって自殺する人が相当数いる。労働者が過労死した場合、大半は使用者が仕事をさせすぎの事例なので、使用者には「安全配慮義務」違反の損害賠償義務が生じる(念のため言うが損害を賠償すれば事足りる、と考えているわけではない。過労死は撲滅されなければならない)。過労「死」まで行かなくても、従業員が過労で倒れた場合は企業にも責任が生じる。
 しかし、労働者が「個人事業主」に置き換えられた場合、使用者にそのような義務が生じるかははなはだ疑問だ。「個人事業主は自分のペースで仕事をできるんだから倒れても自己責任だ」という反論は当然あるだろうが、日本の職場はそういう自己責任で割り切れる仕組みにはなっていない。むしろ、個人責任で割り切れないチームワークの業務態勢を「強み」にして市場から信頼を得て、経済大国になったのが戦後の日本なのではないのか。もちろん、この「強み」が万能でなくなっている現状はあるが、そのモデルを根本から崩すのは「強み」を捨て去ることでもある。部分的な変化はあっても、日本の社会が全体としてこういうモデルを捨て去るとは、僕には到底思えない。そうなれば、多くの「個人事業主」たちは、強気の交渉ができない状況で、ますます過重な労働を押しつけられ、倒れても、過労死に追い込まれても「自己責任」で片付けられてしまうだろう。仕事を押しつけて倒れても責任を取らなくていいなら、企業はその方向に「インセンティブ」があることにもなる。こういう構造はまさに致命的な欠陥がある。

「個人請負」「個人事業主」に保護が必要だ

 前々エントリ「雇用流動化肯定論に欠けた人権の視点」で書いたことにつながるが、どんな新しい枠組みを構築するにしても、働く人たちが人間らしく生活できる状況を確保できなければ奴隷労働やのたれ死にを肯定する議論になってしまうし、本来、そのような制度は健全な国家の制度としては機能しない。
 前も述べたように、今後「多様な労働形態」の一つとして個人請負という形が広がっていくことは避けられない。そうであれば、実態は労働者なのに「個人事業主」と偽って脱法することを厳しく規制し、さらに根本的には「個人事業主」の最低賃金の定め、契約解除事由の制限、職場の安全衛生の整備、団結権の保証、労災保険等の整備、年金等の社会保障の適用、仕事がなくなったときのセイフティーネット等を含め「個人事業主」を保護するための法制の整備は不可欠だろう。これは、労働者保護のためだけではなく、「個人事業主」によるワークスタイルを健全に普及させるためにも決定的な要素になると思われる。実際、ヨーロッパではそういう試みもなされているようだ。
 くどいようだが、社会の制度は強者のためだけにあるのではない。敗れた敗者がのたれ死にせず、再起できるようにする制度設計は絶対に必要だ。
追記
posted by ナベテル at 14:34| Comment(3) | TrackBack(0) | 労働問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「個人請負」者を保護する制度が必要だ(1)

 前回のエントリ「雇用流動化肯定論に欠けた人権の視点」では今はやりの雇用流動化の議論に人権という観点が不足している、ということを指摘した。

 この雇用流動化の一つの形態として「注目」されているのが個人請負による方法だ。今まで労働者が行っていた仕事を「外注」にして、今まで通り職場で勤務する「個人請負事業主」に業務委託(請負)してしまおう、という発想。
 まず問題になるのは「労働(雇用)契約」と「業務委託(請負)契約」の違いだ。法律の専門じゃない人は少し意外に思うかもしれないが両者の違いは民法に規定されている。
民法
(雇用)
第六百二十三条  雇用は、当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって、その効力を生ずる。

(請負)
第六百三十二条  請負は、当事者の一方がある仕事を完成することを約し、相手方がその仕事の結果に対してその報酬を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。

 報酬の対価が「労働に従事」することであるのが労働(雇用)契約で、報酬の対価が「仕事を完成すること」であるのが請負契約なのだ。報酬の対価が「指揮命令に基づいて稼働する」ことそのものか「自律的に稼働した結果の成果」の違いとも言える。典型的には、住宅の建築を大工さんに依頼した場合、施主と棟梁の関係は請負。棟梁と部下の大工さんの関係は労働になる(もっとも建築現場では棟梁と大工の関係が偽装「請負」になってたりするのだが)。
 そして、ある人と人の関係が「労働契約」であると判断されると、働く人=労働者には労働基準法、労働契約法、最低賃金法、労災保険法(ただし個人事業主も一定の場合加入可)等の保護が自動的に与えられ、労働組合法に基づく団結権、団体交渉権、団体行動権も与えられる(この権利が労働者の権利実現のためにきわめて重要であることは前回のエントリで述べた)。使用者には労働者の使用について「安全配慮義務」が発生し、例えば労働者を酷使して過労死すれば損害賠償義務を負うことになる。業務委託の場合、これらの保護が自動的に与えられることはないし、ほとんどの場合は保護の外に置かれてしまう。

 先程、棟梁と大工さんの例のところでちょっと書いたことだが、使用者の側は常に脱法を考え、自分が使用する人が「労働者」ではない、と言い張ろうとしてきた。それがとてもいびつかつ現代的な形で現れたのがゼンショー(「なか卯」や「すき屋」を展開する会社)の事件だろう。
個人請負という名の過酷な”偽装雇用”(1)
東洋経済電子版08/02/14 | 06:59

「『アルバイト』と称する者らの業務実態を精査した結果、『アルバイト』の業務遂行状況は、およそ労働契約と評価することはできないことが判明した」「会社とアルバイトとの関係は、労働契約関係ではなく、請負契約に類似する業務委託契約である」――。つまり「すき家」のアルバイトは会社に雇用されているのではなく、個人事業主として業務委託契約を結んだ個人請負だというのだ。
 
 06年に「すき家」渋谷道玄坂店のアルバイトが不当解雇を訴え組合に駆け込んだことで、同社の残業代の割増分の不払いが判明した。解雇は撤回され、ゼンショーは彼らに謝罪。過去2年分の割増賃金も支払われたが、その後、組合に加入した仙台泉店のアルバイトに対する支払いは拒絶。組合との団体交渉も拒否するようになった。組合が救済申し立てを行った東京都労働委員会の審理の場に提出されたのが、上記の主張である。

 少し補足すると、残業代の支払い義務は労働基準法によって発生する。厨房に入って牛丼を作る人たちが個人事業主であれば、労働基準法が適用されないから、ゼンショーは残業代を払わなくてよいことになるわけだ。ゼンショーがこういうことを言い始めた2年前くらい前、僕は「んなバカな」と一笑に付したが、ゼンショーはいまだにこの主張を楯にとって訴訟を続けているらしい(「労働法と社会保険の部屋」さん参照)。そして、リーマンショック後の不況を経て2年経ってみると、これがゼンショーだけの「バカな」発想ではなかったことが分かってきた。
働くナビ:正社員から個人請負契約に切り替えられる例が増えています。
毎日新聞

 これまで企業が雇用契約を結んで社員に任せてきた仕事を個人請負契約や委任契約にするケースが増え、トラブルが続出している。

 大卒で信販系の会社に就職し、事務を担当していた東京都内の女性(24)は就職の約1年後、会社から「仕事も十分覚えたので、個人請負契約に切り替える」と言われた。「みんなそうしている。収入も増える」と言うので了承した。仕事や働き方は以前と同じで収入は1割増えた。

 だが、給与支払いの内訳を見て驚いた。雇用保険や年金、健康保険などの欄がなくなっていた。会社は「個人事業主なんだから全部自分持ち」。女性は「収入増なんて、社会保険料を払ったらマイナス。正社員で就職したのに、解雇されたようなもの」と唇をかんだ。

 僕が見聞きした例では、ヤクルトを販売する人たちは「個人事業主」だし、オフィス用のパソコン等の組み立ての会社で仕事を覚えた社員が「個人事業主」になる新聞記事も読んだことがある。保険の外交員でもそういう例があるらしい。

 今、不況下でこういう「個人請負」「業務委託」による「流動化」した「弾力的な」労働形態がどんどん広がっているのが日本の現状なのだろう。もちろん、これらの事例の多くは、裁判になれば単なる労働者でしかない実態が明らかになるから、使用者側が敗訴することも多いだろう。ゼンショーの事件もゼンショーの主張が裁判所で認められるとはとうてい思えない。
 しかし、一方で、ゼンショーの例を見ても分かるように、残業代を請求するだけで2年以上も闘わないといけないようでは労働者は疲弊してしまうから実際には立ち上がれない人が多い(そういう意味でゼンショーの非道を告発した方々には敬意を表する)。泣き寝入りせざるを得なくなるのだ。僕が法律相談を受けた事例でも、そういう結果的な泣き寝入りは沢山ある。そして、泣き寝入りの傾向は、本当に保護が必要な弱い立場の人ほど強まるのが実態だ。
 そういう「泣き寝入りの強制」という意味も含めて労働法制の規制を回避できるというメリットがある限り、こういう労働形態は今後も広がっていく(使用者によって強制されていく)と思われる。こういう人たちをどうやって保護していくか、あるいは保護は必要ないのかが次の課題になるわけだが、あまりに長くなってきたのでその辺の検討は次回にしよう。
posted by ナベテル at 14:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 労働問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月24日

雇用流動化肯定論に欠けた人権の視点

雇用の流動化の議論が花盛り
 僕がブログでものを書き始めたのは最近の話だが、ネット上で人気のあるブログを見ていると、正規雇用者の「既得権益」打破、不効率な産業の淘汰、労働者のスキルアップ、ワークシェアリングなど、色々な立場から雇用の流動化を肯定する議論が多くなされている。正直、ここまで雇用の流動化の肯定論が花盛りとは思ってなくて、自分の認識の立ち後れにびっくりした。

 雇用の流動化といっても、内容は様々で、主なものでも派遣労働の拡充、「個人請負」の増大、正社員についての解雇権濫用法理の緩和等がある。このうち「個人請負」の問題はまた他の機会に書くことにして、今日は派遣労働の拡充や正社員の解雇権濫用法理緩和=正社員の非正規化の陰で見落とされている基本的な問題をいくつか考えたい。

日本の労働法制の基本は労使自治の精神

 日本の労働法制の一番の基本になるのは他ならぬ労働基準法だが、例えば休日については月4日が最低基準だし、有給休暇も6ヶ月以上みっちり働いて10日、6年以上みっちり働いても最大で20日の有休しかもらえない。残業時間の制限も法律には書かれてない。賃金は最低賃金法で定められているが、例えば京都府では729円しかない。労災については労災保険法で定められているが、これについても被った損害の全てが保証されるわけではない。まともな職場であるほど、諸法令が定める最低基準よりも高い基準で働くことになる。
 こういう法定された基準以上の労働環境を労働者と使用者の交渉(とくに労働組合との団体交渉)によって決めていく原則を「労使自治の原則」という。そして、日本の労働法制法は職場の最低基準だけ定めておいて、あとは労使自治が機能すれば落ち着くべきところに落ち着いていくだろう、という制度設計になっている。

非正規労働者は労使自治に参画できない(しづらい)
 しかし、使用者と労働者の関係は生産手段を「持てる者」と「持たざる者」の関係であり、放っておくと使用者が圧倒的優位になるのが歴史の教訓だ。そこで、労使自治が機能するためには、大前提として、労働者が労働者としての権利(団結権、団体交渉、団体行動)を行使しても不利益を被らないことが必要だ。そのための法律が労働組合法であり、この法律は実は労働基準法よりも先に作られている。
 しかし、期間社員や派遣労働者は、@日本の主流派の労働組合が企業内・正社員組合化してて非正規社員が組織の対象になってない、A「雇用の流動化」の裏返しとして働きつづける権利が脆弱だから職場で労組に加入しても組合差別以外の理由を付けて簡単に辞めさせられてしまう、B@の裏返しで、退職後も加入したままでいるメリットのある産業別組合がない、などの理由で、労働組合に加入できない場合が多いから、労働者としての権利を行使できない例がほとんどになる。それは結局、非正規労働者が労使自治に参画できていないことを意味する。

無権利状態におかれた非正規労働者の現状
 労使自治に参加できなければ、産業革命以降の歴史が示すように、労働条件は使用者のかなり一方的な方針で決まっていくことになる(もちろん例外はあるが)。僕は労働事件をやっている弁護士だから、非正規労働者の人の現状もそれなりに見聞きしているが、そこから見えてくるものは無権利状態そのものだ。2008年の年末に話題になった「派遣切り」「雇い止め」は典型例だ。期間途中に派遣先と派遣元の契約が解除され、いきなり路頭に迷う例もあった。グッドウィルで話題になった「データ装備費」名目でのピンハネもあった。最近でも、労災を徹底的に隠されて「自己責任」にされてしまったり、残業代を払って貰えなかったりする。あまりに長時間労働なのに残業代がつかないから最低賃金を割ってしまう例もある。法定の有給休暇を取得すると契約更新されないので休んだことがない。こんな例はいくらでもある。奴隷のように酷使され、「壊れ」たら捨てられる。不必要になったら捨てられる。これが日本の非正規労働の現場なのだ。


流動化の議論をするなら流動化した労働者の保護の議論も

 雇用の流動化についても言いたいことは沢山あるのだが、それを脇に置くとして、この議論をする人は最低でも今の日本の非正規労働者がおかれている残酷な状況をどうするべきかについても言及すべきだろう。そこまで考えた議論をしなければ、非人間的な奴隷的労働を肯定する議論になってしまう。そういう議論は根本的なところで説得力を欠いたものにならざるを得ないと思うのだ。
posted by ナベテル at 21:44| Comment(4) | TrackBack(1) | 労働問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月18日

日本郵政が非正規10万人を正規雇用へ

 日本郵政が、10万人の非正規社員を正規社員に登用する方針を出した。
日本郵政、非正規の半数10万人を正社員に
3月17日14時30分配信 読売新聞

 日本郵政は17日、グループで計約20万人の非正規社員のうち約10万人を、2010年度から3〜4年かけて正規社員に登用する方針を固めた。

 亀井郵政改革相が日本郵政からこの方針の説明を受けて了承し、同日、鳩山首相に伝えた。非正規社員の雇用の安定につながる一方、年間で最大3000億円のコスト増になるとの試算もあり、収益力のさらなる向上を迫られそうだ。

 日本郵政は従業員約43万7000人のうち、非正規社員が約20万4000人と半数近くを占める。亀井郵政改革相は「小泉改革路線」を見直す象徴として、日本郵政側に対し、非正規社員の正規採用を求めていた。

 これを受け、日本郵政では、正規社員と同様の勤務実態で、正規雇用を希望する約10万人を登用することにした。大量の採用にともない、郵政民営化で廃止された社内研修機関「郵政大学校」を復活させて、採用に関する選考や研修を再開する方針だ。

 ただ、正規社員とすることにより、グループの人件費が年間2000億〜3000億円程度増えるとみられる。09年3月期連結決算の経常利益8305億円の4分の1から3分の1にあたる。

 また、日本郵政は経営改革の一環として、官僚OBが役職員で在籍するなどしている「ファミリー企業」157法人について、必要な企業は子会社化し、それ以外は取引をやめる方針を決めた。さらに、郵便局などで使用する事務用品の調達について、東京一括調達から、原則として地方調達に切り替える。

 これ、とてもいい提案だと思う。最近、うちの近所に来ている配達員もなんか若くて頼りない感じの人だ。あの人も非正規なんじゃないか、と思って心配していたところだ。

 読売の記事は、非正規を正規に登用することで人件費が2〜3000億円増えて、8500億ある経常利益を圧迫するようなことが書かれている。しかし、それで何か問題あるか?と思ってしまう。もともと、郵政事業で利益を出さなければならない話はどこにもない。むしろ、100%政府出資の国営企業が非正規職員を酷使して利潤をむさぼる方が異常事態なのではないだろうか。

 今、日本は若い人を中心にとにかくお金が無くて、消費もしないし結婚もできない、子供も作れない、という悪循環がとっても分かりやすい状態になっている。ちょうど同じ日に関連する記事が出ていたので一緒に紹介してしまう。

「非正規」男性、結婚に困難=子どもの有無も「正規」と開き−厚労省
3月17日16時27分配信 時事通信

 2008年までの6年間に結婚した独身男性の割合は、正規社員より非正規社員で低く、約1.8倍の差があることが17日、厚生労働省が公表した「21世紀成年者縦断調査」で分かった。
 子どもを持った割合も約2.6倍の開きがあり、雇用形態の違いが結婚や出産に与える影響の大きさが改めて浮き彫りとなった。
 同省は少子化対策の一環で、02年10月末時点で20〜34歳だった男女を追跡調査しており、今回が7回目。
 02年の調査時に独身だった男性約4000人のうち、6年間で結婚したのは正規社員が32.2%だったのに対し、非正規17.2%。子どもが生まれたのはそれぞれ12.8%、4.8%だった。
 結婚の割合は収入に比例して高まる傾向があり、年収400万円台の男性は26%だが、100万円未満では8.9%にとどまっている。
 また、子どもを持つ意欲と出生の関連では、夫婦ともに望んでいた家庭の68.3%で子どもが誕生。両者とも「欲しくない」としたケースでは5.5%だった。
 子どもが生まれた割合は、夫だけが望んだ場合は24.1%。妻だけだと11.6%で、夫の意向に左右される傾向が見られた。 

 今までは、郵便局という公的機関すらがこういう動きを助長してきたのだ。日本郵政の決断は、こういう社会の中で一番なされるべき所をしっかりやった政策なのではないだろうか。社会全体がこういう方向に転がっていくと良いのだが。
posted by ナベテル at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 労働問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月02日

京都市新採教員分限免職処分取消事件完全勝利!

 全くひらがなを使わないタイトル最長記録かもしれない。

 詳細についてはそのうち事務所のホームページに載る弁護団声明に譲るが、新人の頃からずっと関わってきた新採教員の分限免職取消請求事件に勝った!
京都新聞 2010年02月27日(土)
元教諭の分限免職取り消し確定
最高裁、市側上告受理せず


 京都市立小学校で2004年4月から1年間の条件付きで教員採用した男性(36)について、「指導力不足」を理由に分限免職とした市教育委員会の処分の適否が争われた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は27日までに、市側の上告を受理しない決定をした。

 男性の処分を取り消した一、二審判決が確定した。決定は25日付。

 2008年2月の一審京都地裁判決は、男性が受け持ったクラスが「学級崩壊」状態になった点に触れ「指導が不十分な面はあったが、適格性に欠けていたとはいえない」と指摘。「市教委の裁量権行使は誤りで違法」として処分を取り消した。

 昨年6月の二審大阪高裁判決も「分限免職を検討する際には、将来成長していくだけの資質や能力があるかどうかとの観点から判断すべきだ」として、一審の判断を支持した。

 二審判決によると、男性は04年4月に採用され、5年生の担任になった。市教委は「指導力が著しく不足しており、保護者の信頼を喪失した」などとして05年2月、男性本人に同3月31日付の分限免職処分を通知した。

 何の因縁か知らないが、京都市の上告受理申立を却下した裁判長は僕が司法修習生の時の研修所長官だ。さらに遡ると、学生時代にこの人が書いた論文で勉強させてもらった。

 で、そんなことは関係なく、判決内容について。
 京都市教委はボロカス言ってこの先生を首にしたわけだが、実際には彼を分限免職に追い込んだ校長ら管理職の方が「指導力が全く不足」した人たちだった。当時の校長なんか全く支離滅裂な人間で、他学年の児童が行方不明になり、職員室にいた教員みんなで捜索することになったときに、職員室の校長の席から二十数人いる教員に対して「成績付けが終わっていない人は無理せんといて下さい」と言ったことをもって、原告の先生に「学校に残るように職務命令を出した」と言い張り、僕が、そんなの職務命令と気づかないといけないのか?と聞いたら「それを気づかないのが彼の悪いところなんです」と開き直った。この「職務命令違反」も免職処分の理由になっていたのだ。こんな校長に評価されて「無能」の烙印を押されるのは本当に不幸だ。

 ご本人は、管理職の無茶苦茶な指示にも忠実に従い、超多忙な今の学校の中で、睡眠時間もとれずに子供に向き合い、最後はうつ病になって、文字通り命を削りながら頑張っていた人だ。実際にあってみれば分かるが、「無能」とはほど遠いイメージの持ち主。そんな人が病気にさせられた上に、一方的に免職されて、今日まで4年間も学校から追放されていたのだ。

 この裁判は僕にとっても全く辛いものだったが、記録を検討するたびに、管理職の滅茶苦茶なやり方に怒りが沸いてきて、必死に書面を書いた。それがついに報われたのは弁護士としても冥利だ。
 失われた4年間のキャリアは取り戻せないけど、原告先生は、他の人には絶対に経験できない貴重な体験をした。職場に戻って、元気に仕事をして欲しい。
posted by ナベテル at 00:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 労働問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする