2010年06月03日

イースター島モアイ見た記・序(間違いだらけのモアイ観)

 今日はまだ旅先で日本に帰るのは6月7日なので、写真が入ったのはそれ以降。とりあえず、入り口のメモをば。

 昔から、子ども向けの科学本には「世界の七不思議」みたいな感じでモアイのことが載っていたし、僕が大学生の頃には「Newton」にもモアイの謎に関する特集があった。僕はモアイとか「謎」とかが大好きで、その手の記事は目を通していたし、読むと実際に行ってみたくなる性分なので、子どもの頃から「いつかモアイを見る」のが夢の一つになっていた。ちなみに、その頃のイースター島のイメージというと
 @イースター島は島中モアイだらけ
 Aモアイが作られた理由は謎
 B日本からめちゃくちゃ遠い
 Cイースター島は無人島
 Dイースター島は小さい
という感じで、このイメージって多くの日本人が持ってるイメージとそんなに違っていないのではなかろうか。

 ところが、大人になって、自分の金で旅をし始めると、イースター島が候補地に上がることはなかった。イースター島は、実際、めちゃくちゃ遠いのだ。モアイ以外に何もなさそうなのも難点だった。ずっと縁がなかったのだが、今回は、ナンチャラ旅行という大義名分があって、どこか南の島に行く話になったとき、JTBのツアーでタヒチ島とセットになったプランを見つけた。この機会を逃したら、たぶん、いつ来るかも分からない定年後まで行けないのではなかろうか。渡りに船でそのプランに飛びついた。

 旅行に行くことになり、久しぶりにイースター島のあれこれを見聞きすると、子どもの頃から仕入れていたイースター島の情報が結構、偏見に満ちたものであることに気づいた。結論から言うと、上に書いたイメージのうちB以外は全部事実と異なる。

 @についてだが、モアイは村の「アフ」という祭壇の上に置かれていた。部族ごとに村を作っていたので、部族単位にモアイを持っていたことになる。だから、モアイはそこかしこにあるわけではなくて、かつて村があった場所の祭壇においてあるのが正解。実際はほとんどが倒されているので石塚の回りに転がっているのだが。
 Aについては、僕の記憶が正しければ、子どもの頃に読んだ読み物にはすべて「作られた理由は謎」と書かれていた気がする。ところが、今回は「地球の歩き方」にすら理由が書かれていた。モアイは部族の守り神のようなもので、海を背に、村を見つめるように作られたらしい。目から先祖のパワーが出て村を守っていたのだとか。実際、アフの下からは人骨が沢山見つかっていて、お墓のような役割も果たしていたらしい。18世紀頃には部族間、あるいは階級間で抗争が起き、村が他の部族に占領されたときに守り神であるモアイは倒され、目は砕かれてしまった。多くのモアイが倒されている理由はそういうところにあるらしい。この25年ほどで研究が進んだのか、子どもがだまされていたのかは知らないが、この世の秘密を知ってしまった気分だ。
 Cはという訳でイースター島にはかつて数万人の人口がいたらしいが、木を伐採しすぎたことによる資源枯渇、人口爆発などがおき、社会を維持できなくなって人が減り、さらに天然痘がはやったり、チリ領になってから奴隷狩りが行われたりとおきまりのコースでさらに衰退、一時は島民は100人まで減ったらしい。今は4000人くらいの人が住んでいるとのことだ。イースター島の無人島イメージは、日本人が見る写真のほとんどが荒野の中のモアイの図だからかもしれない。
 Dについては、島民のほとんどは空港があるハンガロア村に住んでいて、モアイのほとんどは荒野の中にある。島の端から端まで、車で行くとたぶん4〜50分はかかるくらいの大きさがある。

 今回は、イースター島を2泊3日で観光し、多数のモアイを堪能したわけだが、それは日本に帰ってからのお楽しみということで。

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2010年05月03日

一乗谷で朝倉の栄華と手打そばを賞味

 5月2日は一乗谷に行ってきた。「一乗谷」と言ってどこかすぐ分かる人は戦国時代好きだと思う。福井市から山の方に少し入った谷で、戦国大名の朝倉氏の本拠地があったところだ。

 ここは前から行って見たかったのだが、山の中の廃墟で行きにくいだろうなあ、勝手に想像していた。でも、ひょんなことから観光地として整備されていることを知ってしまった。

 最近、あまり面白くないお父さんのCMだが、観光地の紹介としてはなかなかの演出だ。そして、字幕にもあるように、これは一乗谷で撮影されている。素敵な場所みたいなので、行ってみようかい、ということで行ってきた。

 朝8時半頃に家を出たのだが、微妙に渋滞に巻き込まれ、着いたのは昼。まずは腹ごしらえ、ということで入ったのが集落の中にある蕎麦屋さん「利休庵」。僕は蕎麦好きなので、おろし蕎麦とざる蕎麦と両方食べるセットを注文した。
利休庵蕎麦.JPG

 歯ごたえのあり、ちょっとしたざらつきがあるのが特徴。香りも高く堪能できた。写真に写っているのはざるそばだが、おろし蕎麦の方が美味しいと思う。

 昼食の後はまず復元された戦国時代の町並みを見学。
一乗谷復元町並み.JPG

 CMの冒頭で樋口可南子とお父さん犬が歩いてた所だ。町並みは遺跡そのものの上に忠実に復元されている。上級武士の家と下級武士や町人の家が区分けされていて、かなり計画的な都市だったことが分かる。鉄砲鍛冶や染め屋、数珠職人なんかもいたらしく、当時の建物の感じなんかもよく分かって、正直、結構、感動した(発掘調査の結果は谷の入り口の方にある資料館で見ることが出来る)。
 町並みの出口の所にはちょっとした展示施設があり、朝倉氏五代の歴史を知るのにちょうどいい映像が流れていた。僕は朝倉氏が何で山の中に本拠地を作ったのか全く知らなかったが、やはり物事には理由がある。一乗谷は美濃、飛騨(岐阜県)の方から北陸へ抜ける街道と北陸街道が交差する地点に近く、要するに交通の要衝だったのだそうだ。目から鱗である。

 その次に行ったのが朝倉義景の屋敷跡。
朝倉義影屋敷堀.jpg

 堀で囲まれてはいるけど、城ではなく館だ。当時の庭石がそのまま残ってたりして、これまた感動した。
 そして、屋敷の上の寺の跡地から屋敷と谷を一望した写真がこれ。
朝倉義影屋敷跡.JPG

 うーん、朝倉氏の栄華が見えるなあ(オレだけか?)。

 時間があれば、屋敷の上の方にある山城にも行ってみたかったんだけど、時間切れで断念。いつか行きたい。というか、旅行本には山城があることもちゃんと書いて欲しい。

 今回の旅でもう一つ収穫だったのは、地元の人は朝倉氏を尊敬していることが分かったこと。織田信長などの歴史上の「ヒーロー」の視点から見ると、朝倉氏というのはプライドばかり高くて時代に対応できずに滅んだ「ダメな奴ら」として描かれる訳だが、地元には地元の視線にたった歴史があるのだ。ただ、地元の人が尊敬する朝倉氏というのは繁栄の基礎を築いた初代孝景や絶頂期の三代貞景であって、戦国時代好きなら誰でも知っている五代朝倉義景はやっぱり「お家を潰したダメな子孫」と扱われている印象を受けた。その証拠というか、ちょっと立ち寄った飲食店では
貞景定食1900円
義景定食1400円

と、全国的なネームバリューとは関係なく、地元目線で偉い人の順になっていた。
 
 全般的に充実した旅であった。歴史好きは丸一日十分に堪能できる史跡であることを保証する。
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2010年03月20日

トルコで飲酒しチャドルを脱ぐイラン人たち

 僕の知り合いに豊田旅行という旅行社をやっている豊田陽さんという人がいる。大手の旅行会社とは二味くらい違う玄人好みの面白い旅行企画をたくさん立てている人だ。去年のさる旅行の時にお世話になったのがきっかけで、「旅行通信」というものを送ってくるようになった。この「旅行通信」がなかなか面白く、毎回、ニヤニヤしたり、ふ〜んと思いながら読んでいる。

 今回の号はトルコ人ガイドの人が日本に来て、豊田さんと四条寺町にある「カッパドキア」というトルコ料理屋で現地の情勢を語り合うものだったのだが、トルコを旅行するイラン人が増えている、という話が面白かった。

 イランはイスラムの戒律がとても厳しく、お酒はどこにも売っていないし、女性も常に黒い布(チャドル)を体にまいていて顔を出さない。でも、それは表面だけで、国民の内心の自由化はかなり進んでいる。03年に僕がイランに行ったときも、たばこを吸っている女性がいたし、スークでは色とりどりの女性下着が売られていた。上着は黒しかだめだから、下着で個性を出すのだ。イスファハンの広場であった女学生たちはわざわざ「私たちの服装をどう思う?」と聞いてきたので「みんな美しいのに黒い布で隠すのはもったいない」と言ったらとても満足そうな顔をしていた。男たちも「女の子が布をかぶっているのはつまらない」と言っていた。酒は売ってないんだけど、みんな家庭で密造酒を造っている、という話も聞いた。ニュースを見ても、イスラム諸国でも自由化を求めて学生や市民が大規模なデモをやるのはイランぐらいではなかろうか。

 しかし、イランの政治体制は非常に保守的で、今の大統領は厳しい人だ。酒を飲んでいるのがばれるとむち打ちの刑になるそうだ。今回の「旅行通信」によると、そんなイラン人たちは観光バスを仕立てて、国境を越えてトルコに行くそうだ。国境を越えるとビアホールみたいなものが何軒もあり、ビールをガンガン飲んで、ワインをがぶ飲みして、買い物してから帰る前にもう一度ビールを飲んでイランに戻っていくらしい。女性たちは国境を越えるとチャドルを脱ぎ、短パンとタンクトップになり、黒海のビーチで日光浴するらしい。国境を越えてしまえば、自国の政府も口を出せない。日本人がオランダに行って大麻を吸うような感じなんだろうか、と思ってしまった。

 いずれにせよ、イラン人たちは厳しい戒律を押しつけられているけど、自分たちではその戒律を全く喜んでいないということなのだ。イスラム教に対して敬虔な気持ちを維持しているという意味では、エジプトやシリアの方がよっぽど上だと思う。

 日本にいると、アメリカの目を通したイスラムしか見えてこないから、イスラムの国なんかみんな砂漠で野蛮なテロリストとオイルマネーの富豪しかしかいないように見えてしまうけど、実は一つ一つの国がかなり個性をもっているし、イランみたいに国民の心はかなり自由化している国もある。こういうのは実際に行って見ると自分の中の偏見が一気に崩れて面白いんだけどな。

 今日も結論のない問わず語り。
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2010年01月28日

ラマダン中のシリア旅行は可能か

ラマダン中のシリア旅行は可能か
 イスラム世界にはラマダン(断食月)というのがあって、この期間中は日の出後日没までの間、飲食をしない。厳格な人は唾液さえ吐き捨てるそうだ。なんでも、飢餓状態を味わうことで、食べ物のありがたみを知るのだとか。この期間中は人々の活動が停滞しがちで、みんな仕事を早く切り上げてしまうし、犯罪も減るらしい。
 さて、ラマダン中のイスラム地域の旅行は可能だろうか。結論的には、シリア、レバノンについて言えば、多少の不便を気にしなければ可能だと思う。2009年のラマダンは9月で、旅行期間がもろにラマダン中になってしまったので、不安も多々あったのだが、行ってみたら何とかなった。以下、ちょっと報告したい。

ラマダンの風景

 シリアに到着し、ダマスカス市内に入るとすでに夕方になっていた。宿に着いて荷物を下ろし、一服してから市街をぶらつこうと思って外に出たら日が暮れた直後でまだすこし空が明るかった。通りをみると、2時間くらい前まで車が一杯だったところが閑散としていてほとんど1台もいない。店もシャッターが閉まっている。僕はシリアについては何の知識もなかったので、ヨーロッパのように夜は街が閑散とする国なのかと思った。
 でも、レストランに入りご飯を食べていると、いつの間にやら街中が賑やかになり始め、道路も車で大渋滞し始めた。最初は何のことか分からなかったのだが、このような日没→閑散→賑やかという構図は旅行中、どこの街でも一緒で、これがラマダン中の生活風景なのだということに気づいた。仕事をしている人たちは日没=飲食解禁のために急いで家に帰り、ご飯を食べた後は街に繰り出して夜中まで遊ぶそうだ。

観光に制限はあるか

 ラマダン中の観光はそれなりの制限がある。例えば、パルミラ遺跡のような観光スポットはラマダン中は午前と夕方しか見られなかったり、本来は見られるはずの円形劇場が閉まっていたりする。それでも、主要な観光スポットが全く見られない、ということは少なくとも僕についてはなかった。
 バスやセルビスでの交通については不便を感じたことは一度もなかった。ラマダン中だって経済活動は継続しているんだから、当たり前と言えば当たり前だが、普通にバスに乗れて少し安心した。

ラマダンに対してどう接するか
 シリアでさえ、公式には「ラマダンをどうするかは個人の自由な意思に任されている」というようなことが言われる。しかし、これは西洋向けの彼らの精一杯の「建前」というやつだろう。実際には、ラマダンの風習は日本人が初詣に行くよりもずっと深く浸透しているように見える。パルミラでおんぼろタクシーに乗ったとき、車の中には僕と運転手しかおらず誰も咎める人がいないのに、運転手が日の入りの号砲と同時に水を飲み始めたときは感動を覚えた。彼は一日しっかりと神の教えを守ったのだ。
 こういう国では「郷には入れば郷に従え」が基本だと思う。もちろん、シリア人は外国人がラマダン中の日中に飲食をしても、直接的に非難することはないと思う。でも、心の底では「こいつら、分かってないな〜」と思っているのではなかろうか。ハマからアレッポに向かうバスの中で、割と大企業に勤めていて熱心に英語を勉強している青年と慣れない英語で会話をした。彼は僕が水を飲まないことについて「イスラム教徒じゃないのだから飲んでもいいのに」と言っていたが、僕が「飲まない」というと「何でだ」と聞いてきた。僕が「イスラム教徒ではないが、飲まない方が礼儀正しい(Polite)と思う」と言ったら、とても満足そうな顔をしていた。きっと、日本に来た外国人が敷居を踏まずに部屋に入ってきて端正に正座したら僕らも何となく嬉しいのではないだろうか。僕らがイスラム世界に行ったときに取るべき態度の基本はここにあるような気がした。

では実際にはどうしたか

 と、格好良くしめるだけでは建前の議論に終わってしまうので、どうしたかの本音を書くと、遺跡に行ったときとかにかげ隠れて飲んだお菓子を食べたりしていた。見えない場所ならOK。一度、日中ほとんど飲まず食わずでやってみたんだけど、あまりに苦しくて1日の途中でギブアップした。観光客としては、これが彼らに合わせるギリギリの線だと思った。
 でも、日没時にモスクの中にいると、親切なおじさんがお菓子を分けてくれたり、果物をくれたり、外国人に対してもイスラム世界らしい、互助精神を示してくれる。こういう人たちの気持ちを傷つけてはいけないな、と思ったのであった。
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2010年01月27日

バールベックの町の解説

 前回のシリア-レバノン国境越え(リンクはこちら)に引き続き、レバノンのバールベックの町の紹介。『地球の歩き方』には遺跡の紹介とホテルの紹介くらいしか載っていなくて、町の地図さえない。単純な作りなので自分で歩き回ればOKと言われればそれまでなんだけど、予備知識があった方が不安がないのも事実。2009年9月現在の簡単な地図を作ってみたのでご参照いただきたい。


より大きな地図で バールベック中心部 を表示

 まず、シリア国境から載ってきたセルビスは町の北東にあるセルビス乗り場に離発着する。メインストリート(印が沢山付いてる北東から南西に延びる道)ではベイルートに行くセルビスにも声をかけられたが、これはどこに乗り場があるのか分からなかった。
 地球の歩き方に載っているホテルは町の南西側にある様子。どこにあるのか分からなかったので、現地の人に案内してもらった。今回は自分が泊まったパルミラホテルと、場所を確認できたペンションジャマルツリスティックの位置を載せておいた。他にも周辺に宿屋があったように思う。
 パルミラホテルに行く途中には酒屋さんらしきお店もあった。レバノンはキリスト教徒もいて、酒を飲む人達がいるのだ。
 パルミラホテルの寡黙な管理人さんに「美味しいレストランを教えてくれ」と言ったら教えてくれたのがレストランシェヘラザード。町の中心部の一番高いビルの最上階にある。階段を上っていくと暗くなって「もう屋上か?」と一瞬とまどってしまうが、その上の階。遺跡を一望できて味も普通に美味しい。夜に行ったら遺跡がライトアップされていたが、突如停電して街中真っ暗になった。もちろんレストランも真っ暗。暗闇の中で食べるレバノン料理もなかなか面白いものだった。停電がだんだん回復していく様子が特等席から観察できたのも面白い。

 遺跡の入り口ではなぜかドルでチケットを購入できて、換算すると正規料金の半額だった。チケットも何だか曲がってくたびれた感じだった。後で気付いたが、あれは入り口のスタッフが不正をしてチケットを使い回し、ドルを懐に入れる算段なのではないだろうか。レバノンはシリアに比べると大分、役人の腐敗がひどい気がした。

 遺跡の中は細かい説明いらず。遺跡好きなら理屈抜きで感動できる。バッカス神殿はローマ式の神殿なんだけど、世界でも有数の良好な状態の神殿なんだそうだ。個人的には、ギリシャのパルテノン神殿よりも良かった。

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祭壇跡からジュピター神殿を望む

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ジュピター神殿円柱

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バッカス神殿

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バッカス神殿入り口

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バッカス神殿回廊

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バッカス神殿内部

パルミラホテルの管理人.JPG
パルミラホテルの管理人さん

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