2013年09月14日

『弁護士に頼らず1人でできる未払い残業代を取り返す方法』(松本健一著 ダイヤモンド社刊)の書評

 今、残業代請求に関する実践本をあれこれと読み比べているのだが、実は、労働者側の立場に立って書かれた残業代の本はほとんどない。この本はそういう労働者側の立場で書かれた数少ない残業代請求の実践本である。外面だけは。

1 本の趣旨と実際の中身の矛盾

 この本の趣旨はタイトルにも現れているが、弁護士に依頼しなくても労働者が自分一人で主に労働審判手続きを利用して使用者に残業代を請求し、弁済を受ける事ができる、というものである。一人でできるというからには、一冊読めば、自分の残業代を正確に計算できるようにならなければ金を出して買う意味がない。
 ところで、残業代の計算方法は非常に大ざっぱに言うと
@基礎時給×A割増率×B時間外or休日or深夜早朝労働時間
となる場合が多く、@〜Bのそれぞれについて法令の条文や当該労働者の労働契約の定め方が絡む。
 @基礎時給一つとっても、労働基準法施行規則19条に計算の仕方が定められており、特に月給制の場合は計算がややこしい。単純化すると賃金÷所定労働時間なのだが、多くの事例では、労働者は割り算の分子となる賃金についてどの項目を算入して、どの項目を算入しないか知らない(「基本給」をいれる、という簡単なものではない)。また、割り算の分母となる自分の所定労働時間の計算方法も知らないため、計算ができない。これを正解に導くのが専門家の役割だろう。時給制、日給制でも、月毎に手当が支払われているような場合には同じ問題が発生する。
 ところが、この本にはそのような労働者がどうやって実践的に自らの基礎時給を計算するのか、その方法が記載されていない。分子に入る賃金とそうでないものの区別に全く言及されていない。所定労働時間の計算ができない場合にどのような「仮の所定労働時間」を設定するのか、また、労働審判でどうやって使用者側に所定労働時間を尋ねるのか、言及されていない。従って、多くの読者は結局、自らの基礎時給に到達できないのである。
 また、各種割増賃金の加算がある場合と無い場合の区別も書かれておらず、A割増率も定まらない。「労働時間」とは何なのか論じずに話を進めるからBの時間も労働者が自ら正確な算出できない。
 結局、この本を読んだ労働者は、自らの残業代について、計算が出来ないか、間違った残業代の計算をせざるを得なくなる可能性が高いように思われてならない。
 なお、残業代の計算については、私は「給与第一」(リンクはこちら)という計算ソフト(エクセルシート)を作っており(もちろん無償)、これを使えばこの社労士さんに頼らず1人で残業代の計算を、かなりの精度で行えることも述べておく(もちろん万全ではない)。

2 結局1人ではできない
 一方、著者は読者にいくつかの“成功事例”を結果の金額だけ示しながら「弁護士に頼まなくても自分で争える!」などと勇ましく言う一方で、返す刀で以下のように述べる。
私は、労働審判の申し立てに代理人は必要ないと思っています。弁護士に頼まなくても十分に申立てはできますし、最後まで争えます。<改行>ただ、大事な場面でアドバイスを受けられる人は必要かもしれません。たとえば、労働紛争に詳しい社労士や経営コンサルタント、紛争を経験している実務家などです。代理人ではありませんので、弁護士に依頼する時のような大きな負担はかかりません。(p45〜46)。
 あれ?1人でできるんじゃなかったの?
 ちなみに、著者の社労士さんが代表者を務める社労士事務所は、残業代請求の特設ページを持っているが、労働局のあっせん制度の代理(これは社労士にも代理権が与えられている数少ない制度だが、強制力が無く、弁護士の立場からするとあまり役に立たないので利用しない)で着手金9万4500円、成功報酬は解決金額の10%となっており、これは、法テラス(日本司法支援センター)の代理援助制度を用いて弁護士に労働審判の代理を依頼する場合の金額(着手金10万5000円、報酬は解決金額の10%+消費税分)とあまり変わらない。法テラスは弁護士費用を立て替えて支払ってくれる上、無利息で分割して返済できる利点もある。ただし、法テラスの代理援助制度は社労士には利用できない。
 この社労士事務所のページには「労働審判の補佐」という項目もあり、この本の「アドバイス」に対応するのかもしれないが、料金は書かれていない。「労働審判補佐」や「アドバイス」はあっせんの代理より安いのだろうか?
 いずれにせよ、社労士は労働審判の代理をできないのだし、労働審判は審理の場でのやりとりがものをいう。期日に代理人として出席してくれないのなら、依頼する意味はあまりないだろう。

3 労働審判を奨めるのに、労働審判の中身がリアルに書かれていない

 上記のように、社会保険労務士は、労働審判に代理人として出席できない。この著者も、実際に労働審判期日においてどのようなことが行われているかは、書物と、依頼者の口づてによって情報を得ている可能性がある。そのせいか、具体的な期日に向けた箇所が、あまり有益なアドバイスになっていない。仕方がないので、身だしなみに注意しろ、などとあまり本筋と関係ないことを述べたり、反論メモの例(p165)に書いてある反論が「言われたら言い返す」のレベルで、残業代請求事件の要件事実(訴訟や労働審判で攻防の対象となる事実)とはあまり関係のない事になっている。同僚の陳述書に書かれている事項(p110)もほとんど無意味であり、かつ、現役の同僚を事件に巻き込むことにより、その同僚が被るかもしれない不利益について何も書かれていない。

4 中途半端な本を頼りに一人で労働審判起こしたら使用者側に著者がいる可能性

 社労士さんの仕事の基本は使用者側に立って、就業規則を作ったり、給与計算や社会保険の手続きを支援したりすることだろう。この著者の社労士さんも、本の裏の方に書いてあるプロフィールを読む限りは顧問先企業を持っているようにも思える。少なくともホームページで使用者側を勧誘している。
 この本の特徴の一つは、中途半端な内容を頼りに勇ましく一人で使用者に立ち向かうと、最悪、その使用者のバックに著者が付いていて、揚げ足を取られて撃退されたり、残業代を値切られてしまう可能性すらあることだろう。それを意図してこの本を作ったのならなかなかの策士だと思う。

5 調停案万能主義?

 そして、著者は労働審判手続きで「審判」を受ける事を良しとせず、審判委員会から出される調停案について、「調停案が出されたら、それを承諾した方が得策だということです。私がかかわった未払い残業代請求では、ほとんどの申立人が調停案に合意しています。」(p197)などと書く。労働審判の実態として和解が多いのは事実だが、中身を問わずに調停案への同意を「得策」とするのは専門家のアドバイスとしてはあまりに無茶だろう。たしかに、和解が決裂して審判になると、訴訟に移行する可能性も高まり、手続きがますます社会保険労務士の手の届かない方にいってしまうのだが(もともと社労士がなぜ業務分野外の労働審判に関与できるのかも私には分からない)。「いざとなったらとことん争うぞ」という姿勢があるからこそ有利な和解も可能になる。和解至上主義に陥れば、最後は使用者側の言い値で妥協するしかなくなる。

6 その他気になったこと
 挙げるときりがないのだが、労働事件の問題に絞って代表的なものを。
・ 法内残業を最初から切り捨てており扱いが酷い(p19)。法内残業に恨みでもあるのだろうか?ちゃんと計算すれば労働審判の和解で無視されることも無い。
・ 「管理監督者」の問題を掲げながら、具体的な判断基準について何も触れていない(p28)。
・ 「不当解雇による賠償金」(p70)、「退職勧奨と解雇医師の通告により精神敵苦痛を受けたことの賠償」(p73)がとれる事案なんてほとんどないし、「退職勧奨の問題より未払い残業代の方に主眼を置いて実利的な利益を得ること」(p73)という方針のどこが実利的なのかも全く不明だし、誤りだろう。両方重要。法内残業と同様、単に著者が扱いにくい問題を切って捨てているように思えてしまう。
・ p72の以下のやりとり
社労士「およそ300万円になります」
Kさん「えっ、そんなにですか?全然考えていませんでした。会社は払いますか?」
社労士「払いますよ、きっと。払わなかった法的手段に訴えましょう。といっても訴訟という大袈裟な話にはなりません。労働審判という方法がありますから。そこまで行ったら必ず取れます。少なくともゼロということはありません」
は、都道府県の特定社会保険労務士倫理規定7条あたりで禁止されている「依頼者に有利な結果となることを請け合い、又は保証」する事例ではないのか。実際、労働審判は訴訟移行する可能性があるから使用者から残業代を取れると決まったものではないし、残業代を払わないような企業は常に倒産リスクがある。「必ず取れます。」「少なくともゼロということはありません」はこの倫理規程が無くてもアウトだろう。
(受任の際の説明等)
第 7 条 
(1項省略)
2.特定社会保険労務士は、事件について、依頼者に有利な結果となることを請け合い、又は保証してはならない。
千葉県社会保険労務士会の例

7 まとめ
 要するに、この本を読んで明らかになるのは「一人で残業代を取り戻す」ことの困難性であり、専門家の関与の必要性であり、そしてその専門家とは法律上、労働審判に関与できない社会保険労務士のことではなく、弁護士であるということだ。費用については上記に述べた通りで、弁護士が法律知識を正確に備え、労働審判期日に代理人として出席することを考えれば、弁護士の方がより安いのではないだろうか。もちろん、弁護士費用それ自体が安いというつもりはないが、専門家に依頼するというのはそういうことだし、それによって中途半端な知識で失敗するリスクを大幅に軽減することができる。労働事件専門の弁護士を探しているなら、「日本労働弁護団」で検索すれば、全国の弁護士が見つかる。
 結局、この本は刺激的なタイトルで釣っておいて、それとは違う中身を書き、読者をあらぬ方向へと導くものであり、全体としていかがなものかと思う次第である。
posted by ナベテル at 09:35| Comment(3) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月22日

千葉君の打撃を擁護する野球素人だけど法律家の意見

 夏の甲子園で、花巻東高校の千葉翔太君の“カット打法”が論争になっている。最初に言っておくが、筆者は野球はずぶの素人である。今年の甲子園もほとんどチェックしていない。しかし、素人なりに阪神ファンであり、時間があれば高校野球も見たいし、学生時代は神宮第2球場まで東京予選を見に行ってたし、日本国民は、素人ブラジル人がサッカーを語る程度には野球を語る“権利”があると思うので、門外ながら、一筆言上申し上げる。といっても、僕は法律家なので、規則とか、ルールとか、そういう側面からである。

規則の確認
 件の規則は、高野連のホームページにちゃんと掲載されている。
17.バントの定義
バントとは、バットをスイングしないで、内野をゆるく転がるように意識的にミートした打球である。自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルにするような、いわゆる“カット打法”は、そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)により、審判員がバントと判断する場合もある。
(規則6.05(d))

 法律家なので、法律の要件事実的にバントの要件を確認すると
(1)バットをスイングしない
(2)内野を緩く転がるように意図的にミートした打球
の二つの要件をいずれも満たしたものである。
 そして、さらに、「自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルにするような、いわゆる“カット打法”」について、バントの判断指針が示されているが、そのときに判定対象となるのも
(3)そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)
であり、バットのスイングの有無であることが分かる。
 裏を返せば、自分の好む投球を待つために意図的にファウルする場合でも、バットをスイングしていれば許容される(ファール性の当たりでスリーストライク取られない)のが、高野連のルールなのである。

千葉君の打法の確認
 早速、千葉君の打撃を見てみる。

 文字媒体で情報を仕入れている間は、もっと際どい打法なのかと思っていたが、これは素人の筆者が見てもバットをスイングしているように見える。そして、千葉君の個人成績が公式に開示されていないので、2ch情報に頼るが、鳴門戦が終わった段階で以下のようになっている。
遊安 四球 遊ゴ 左安 左安
二安 三振 三ゴ 右3 中安
四球 中安 四球 四球 四球

打率.700 出塁率.800
「痛いニュース」より

 2ch情報が信用できる前提に立てば、立派な成績だ。カットでファールにする「だけ」が能の選手でないことが分かる。
 ルール上は、千葉君の打撃は「シロ」としか言いようが無いのではないか。

不可解な“大人の事情”

 これに対して、大会本部、審判部は、卑怯な作戦に出た。
 実は19日の準々決勝の後、大会本部と審判部からカット打法について花巻東サイドに通達があった。「高校野球特別規則に『バントの定義』という項目があります。ご理解ください」。

 「バントの定義」とは「バントとは、バットをスイングしないで、内野をゆるく転がるように意識的にミートした打球である。自分の好む投球を待つために、打者が意識的にファウルするような、いわゆるカット打法は、そのときの打者の動作(バットをスイングしたか否か)により、審判員がバントと判断する場合もある」というもの。

 千葉のカット打法はバスターのような構えから三塁側にファウルを打つが、これがバントと見なされる可能性があるということか。2ストライク後にファウルを重ねればスリーバント失敗で三振となる。大会本部、審判部は「バントの定義に触れるんではないか、ご理解ください、分かってくださいということです」と説明したが、この通達により、千葉はカット打法を封印せざるをえなくなった。
日刊スポーツ「花巻東・千葉 カット打法できず号泣敗退」

 野球の審判は、訴訟で言えば裁判官であり、試合中においてその判断は絶対だ。プロ野球でも、あとで誤審を謝罪することはあっても、試合中の審判の判断が事後的に変わることはないのではないか。まして、高校野球では大会主催者は絶大な力を持つ。主催者、審判がすべきなのは、ルールに従って試合中に千葉君の打法を審判することであり、「理解」という名前で圧力をかけ、打法を封印させることではない。これは自らが判断を迫られる厄介な問題を回避し、試合の当事者である花巻東高校に、面倒を抱え込みたくないという主宰者の意図を「忖度」させ、「自主的」に諦めさせるという、実に卑怯なやり方だ。もっと穿った見方をすれば、「ルール上はバントにならないが高校生らしくない」という意図が裏にあるようにも思える。
 本件で、一番卑怯なのは、間違いなくこのような大人の事情で「自主的に諦める」圧力をかけた人々だろう。

監督は己を貫徹し、千葉君を守るべきだった
 そして、次に批判されるべきなのは、花巻東の監督だろう。監督は、千葉君に“カット打法”の練習をさせ、それをチーム戦略に位置づけ、甲子園まで来た。そうなのに、主催者側のルール外の場外乱闘的な「理解」に屈し、千葉君が(恐らく、監督の指示で、血のにじむ努力をして)積み上げてきた打法を一瞬で無にした。これは、地方大会や本大会で花巻東に破れたチームに対する背信行為でもある。監督は自分の筋を通せなかった責任があり、それらのチームや千葉君に土下座して謝るべきだろう。
 この件を見ていると、今はスターとなり、すでに引退した松井秀喜が甲子園球児だったときの「五打席連続四球問題」というのを思い出す。しかし、明徳義塾高校の監督はピッチャーに松井の敬遠を指示し、(僕の記憶によれば)観客のブーイングにも似たどよめきの中でもその方針を貫徹した。もっとも、あのときも、試合後にルール上は全く問題ない敬遠について、「高校生らしくない」「正々堂々勝負すべき」という批判が巻き起こったが。筆者は、打撃力が松井に偏重している星陵高校の弱点を見抜き、冷徹な作戦で押さえ込んだ明徳義塾の監督を評価しているし、それは卑怯でも何でもないと思うのだ。
 今回も、花巻東の監督は、己が監督として積み上げてきたものを貫徹し、世に問うべきだったのではないだろうか。チーム戦略を失った花巻東高校は、準決勝で延岡高校の横瀬投手の好投の前に撃沈した。千葉君も得手を禁じられ、見る影もなかった。この辺の状況は
 「花巻東・千葉翔太クンのカット技術を「ご理解」によって封印させた大会本部の圧力が理解不能な件。」
が活写している。残念なのは、花巻東打線の沈黙が、相手投手の力によってねじ伏せられたものなのか、主催者・審判の圧力による戦略的・精神的動揺によるものなのか、判別がつかないことだ。リンク先にも書いてあるが、観客が見たかったのは、トリックVS正攻法のぶつかり合いだったのではないだろうか。

この一件から見えるもの
 鈴木大地のバサロスタート、スキー・ノルディック複合の活躍など、日本のアスリートが新技術で頂点を極めると、不利益なルール変更がされてきたことを何度か見ている。しかし、所定の手続でルールを変更するのはダメとは言えないし、「卑怯」な作戦を禁止するのに最低限必要なことだろう。しかし、大会の主催者はそれをせず、ルール外の圧力で千葉君を禁圧した。ルールの運用に責任を持つ側がルールによらないのはルールに対する冒涜だし、結局、主催者が「ルールブックではなく、オレがルール」
と言っているようなものだ。
 実は、こういう様は、高校野球に関わらず、日本社会でよく見られるように思える。そして、こういうやり方が非民主的な「寄らば大樹の陰」「知らしむべからず よらしむべし」の文化を作り、次世代が創意工夫や新たなチャレンジをする芽を摘んでいるのではないだろうか。これこそ、この件から垣間見える問題の本質のような気がしてならない。

2013.8.22 15:45追記
 上記の高野連のカット打法特別ルールが出来たきっかけになった当事者が千葉君の打撃を「問題なし」と証言している記事を見つけたので引用しておきます。
カット打法“禁止” きっかけは巨人・阿部の父「バントだ」(スポニチアネックス)
特別規則17項が設けられるきっかけとなったのが72年夏の東洋大姫路の9番・前原正弘選手だ。

 前原は千葉と同じくレギュラー最小兵の1メートル66。ファウルで粘って四球を選ぶカット打法は兵庫大会(12打数無安打10四球)からバントか否か議論を呼び、迎えた習志野との1回戦。初回2死一、二塁から2度カット打法でファウルした。

 1度目に習志野の捕手・阿部(巨人・阿部慎之助捕手の父)が「バントだ」とアピール。2度目に郷司球審から「フォロースルーをするように」と警告された。警告後の前原はカット打法はせず、2打数無安打で四球もゼロだった。

 これを機に17項が設定され、92年センバツ決勝で東海大相模の吉田(元近鉄)が帝京のエース三沢(元巨人)の投球をカットし、スリーバント失敗に取られた。

 ▼阿部東司さん(58) あの時はバッターがグリップを握った時、右手と左手が離れていてバントのように打ったから審判に言った。今回の千葉君は両手を離して構えていたけど、振る時には両手がしっかりくっついて打っていた。だから、この子はあの時と似てるけど、ちょっと違う。問題ないと思って見ていた。

 ▼前原正弘さん(59) 彼の悔しさはよく分かる。あの打法は選球眼やバットコントロールが大事で誰もができるものではない。私と同様、小さい体で何ができるか努力してレギュラーになった。高野連にはもう少し大きな目で見てほしかったし、準決勝の前に警告するのもどうか。私が郷司さんに注意されたのは甲子園初打席ですから。

2013.8.23 11:30追記
 トラックバックを頂きました。「あれはバントだ」と堂々の論証。議論が議論を呼んで面白いですね。丁寧に書いてあります。こちらもご参照下さい。念のため言っておくと、審判が責任をもってバント判定することについては異議がありません。僕自身書いてますが、スポーツでは、試合中の審判の判定はその限りで絶対ですから。
花巻東・千葉君のカット打法(故意のファール打ち)はバント!!法律素人なただの主夫の意見
 それにしてもスイングの定義が定まっていない、というのは面白いですね。空振りストライクとの関係では「ハーフスイング」という概念があるので、その限りでは「スイングとはハーフスイングを超える動作である」ということになりそうだけど、それをバントの場面で当てはめると、千葉君のスイングはそれをはるかに超えているようにみえる(従って空振りすればストライクになる)。しかし、その同じ動作について、ボールが当たったときは「スイングなし」と見ることがあり得るのか、という論点で、法律的な言い方に言うと「スイング概念一元説」と「スイング概念多元説」の論争になり得るのかもしれません。この方はそこは判断せず「審判裁量説」を前面に出していますが、主催者と審判団はそうやって下駄を預けられるのが嫌だったのでしょう。その辺の見解は一致しているように思われます。
posted by ナベテル at 12:54| Comment(227) | TrackBack(2) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月02日

麻生太郎のナチス発言を国語の受験問題的に分析してみる

 ツイッターや2ch周辺の議論を観察していると、麻生太郎のナチス発言について、「静かに議論したいと発言しただけだ」「ジョークだ」「前半と後半で首尾一貫していない(だから全体が曖昧で分からない)」といった発言が散見されるが、本当だろうか。
 早速引用してみよう。朝日新聞の「麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細」から引用した。ポイントとなるキーワードに色を付してある。また、段落番号は筆者が追加した。
 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。

 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。

 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。

 この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。

 しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。

 そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。

 ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。

 何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

10 僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。

11 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

12 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。

 受験的に言うなら、いわゆる「二項対立」の発言だと言うことが分かる。対立しているのは赤字を付した「狂騒」「怒鳴りあい」「物議」「騒ぎ」「騒がれた」「騒ぎます」「喧噪」に対して青字を付した「静か」「静かに」「わーわー騒がない」という言葉だろう。そして、麻生太郎が後者の青字のカテゴリーに軍配を上げ、そちらの方向性を好み、肯定していることも読み取れる。

赤字の「騒ぎ」カテゴリーに分類されるもの

 そして、赤字カテゴリーの典型例として挙げられているのが、日露戦争の戦勝日での靖国参拝であり、また、靖国神社の参拝について日本国内で起きた「マスコミ」による「騒ぎ」とそれに反応した中国、韓国の「騒ぎ」である。国内で起きた「騒ぎ」の具体的な内容について、麻生は語らないが、文脈からすれば、閣僚や国会議員が靖国神社を参拝することに対する国民やマスコミの批判を指していると考えるのが妥当だろう。この問題の経過についてはwikiの「靖国神社問題」の項目に色々と書いてあるのでここでは触れない。ただ、首相や自治体首長の参拝や玉串料奉納については国内で繰り返し訴訟が提起されている問題で、日本国内の世論も鋭く対立しており、「マスコミ」が勝手に騒いでいる訳ではないことだけは指摘しておく。
 麻生は、こういう世論やマスコミの批判を「狂騒」と呼んで批判し、忌避すべきものとしているのである。

青字の「静か」カテゴリーに分類されるもの
 一方で、麻生が好意を示し、肯定的に評価している青字のカテゴリーに分類されるものは、まず、先程も触れた自民党内部での自民党改憲草案の議論の過程である。これは、みんな同じ方向性をもったいわば同志が議論しているのだから、麻生が言うような怒鳴りあいにならないのは当然だろう。
 次に、青字カテゴリーに挙げられるのが、麻生が言うところの「マスコミ」が「騒ぎ」始める前の政治家の靖国参拝であり、麻生が子供の頃の自身の靖国参拝である。
 そして、三つ目が、太字下線部にした部分である。もう一度全文引用すると、
<靖国問題での「騒ぎ」を受け>だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。
の部分である。麻生は、「ナチス憲法」(実際は「全権委任法」によるワイマール憲法の停止状態の事を指すと思われる)について、「静かに」「誰も気づかないで」「わーわー騒がないで」「みんないい憲法と、みんな納得して」変わったものだと主張しているのであり、そのただ中で、決めぜりふである「あの手口学んだらどうかね」と言っているのである。
 麻生発言が分かりにくいのは、そもそも歴史事実の認識が誤っていたり、「まさかヒトラーを肯定的に扱うはずがない」という思い込みがあるからであり、麻生の頭の中では上記のように、首尾一貫しているのである。

異論に耳を貸さず静かにやりたい憲法改悪
 そして、麻生発言には明確に現れないが、赤字カテゴリーに分類されていると思われるのが、自民党の改憲草案や憲法96条改正論に対する国内世論、マスコミの批判である。これは第6段落で、自民党内部での改憲案の議論を「静か」といい、一方で、第7段落の「今回の憲法の話も狂騒のなかでやってほしくない。」という発言に現れている。自民党の改憲草案(=今回の憲法の話)は、自民党が昨年12月の総選挙で大勝する中でも、ネット上でもボコボコに批判されているし、憲法96条改正問題については、今年になってから急激に世論が盛り上がり、憲法学者らが自民党を批判して「96条の会」まで作り、大手マスコミでも朝日、毎日などは社説で明確に反対の論陣を張った。その影響で、自民党が参院選前にほぼ沈黙せざるを得なかったテーマだ。
 最初から憲法を変えたい人間が集まった自民党内部の議論を青カテゴリーにし、「マスコミ」(繰り返すが実際はマスコミだけではなく国民世論である)等の外部からの批判を赤字カテゴリーにおいて、赤字カテゴリーでやって欲しくない、と言うのが麻生の主張なのである。麻生は第12段落でも「わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。」とのべ、あたかも「マスコミ」が「わーわー騒ぐ」民主主義が赤字カテゴリーに入るかのような発言をしているのである。ここに、上記のナチス称揚と一貫した麻生太郎の哲学が見えるのである。
 まとめれば、麻生発言は、彼の中では首尾一貫しているのであり、麻生は自民党の改憲草案が民主的に議論されてボコボコにされることを嫌っており、ナチスの手口を学んで国民が知らない間に憲法を変えてしまうやり方に共感を覚えているのである。
 こんな人間が、副総理と財務大臣を務める我が国が、本当に恐ろしいし、本当に恥ずかしく思う。

2013.8.3 17:15追記
 漫画評論家の紙屋高雪氏による評論。筆者の言葉足らずなところを非常に上手く補っていると思う。こちらもご一読を。
 紙屋研究所「麻生発言はナチ肯定なのか?」

2013.8.5 14:00追記
 もう、大分下火になってますが。「朝日の文字起こしは信用ならない。本物の音声を聞くべきだ」という人がいるので、引用しておく。筆者は、こっちの方が質が悪いんじゃないだろうか、と思う。


 あと、その後の議論についていくつか思うところを。

1 マスコミうざい論
 麻生の発言はマスコミ批判であり、憲法改正を静かに議論したいだけなんだ、という説。これは、筆者が当初書いたとおり、麻生の言う「マスコミ」は、実際はマスコミが火のないところに煙を立てている話ではなく、国民世論あってのことだ。麻生が「喧噪」「狂騒」と批判する対象をマスコミ報道に矮小化するのは納得できないし、現に、この間の国民的な議論で自民党の改憲草案や96条改憲の提案がボコボコに批判され、参院選争点にできなかった(し切れなかった)、という社会的な事実を踏まえていない。エントリでも紹介した靖国問題についても、問題の本質を捉えられない。
 典型的にはこのブログか。狐の国「麻生の憲法発言を捏造したマスコミ」

2 青字カテゴリー、赤字カテゴリー逆転論
 本人の弁解も「私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。」なのでこの説に近い。すなわち、「あの手口学んだらどうか」を反語だと捉えたり、「あの手口に引っかかってはいけない」と解釈する見解。筆者の分類で言えば、問題の箇所を青字から赤字にそっくり置き換えてしまうわけだ。しかし、この説の難点は、本人の弁解も含め、音声からも、文字からも、「見える人にしか見えない」難しい解釈と言うことだろう。
 本人のコメントはこちら。
 「反語」説は極東ブログ「「ナチス憲法」を引き合いにした麻生太郎副総理発言について」
 「あの手口学んだらどうか」に解釈を加えるのは蘭月のせいじけーざい研究室。「麻生「ナチスに学べ」発言を、初心者向けに徹底分析してみる。」
 なお、この説を補強する理由として「手口」という言葉を良い意味で使わない、というのがある。しかし、麻生は自分が肯定的に評価している自民党内部の改憲議論について「べちゃべちゃ、べちゃべちゃ」と、普通はあまり肯定的に使わない表現で評している。麻生は一種露悪的なところがある人だし、あまり意味のある議論ではないと思う。
 あと、この類型の説も、麻生が国民世論を無視する意味での「静かな」議論をしたいと言っていることについてはどう考えているのだろうか。

3 話し言葉から厳密な意味を解釈しようとするのが無理、という論
 はてブのコメント欄なんかにいくつか見える。しかし、麻生の発言は首尾一貫しているし、実は、政治家はこの二項対立の技法を多用する。小泉の「郵政民営化に賛成か、反対か」はその最も徹底された例だろう。話す方も話しやすいし、聞く方も分かりやすいのだ。大体、財務大臣の話し言葉について「意味を解釈するのは無理」などと言ってしまうと、我々はそういう人間を国家間で財政問題を話し合う重要な会議に我が国の代表として送り出し、日々、訳の分からない発言をさせていることになってしまう。

4 ブラックジョーク説、お笑い説
 ジョークでもダメでしょ。お仕舞い。
 お笑い説は、麻生がボケたという事なんだろうけど。そういえば、某映画監督(僕はお笑い芸人にしか見えないが)が、イタリアの映画祭で「また一緒に戦争やろうぜ」とギャグのつもりで言ったこともあったな。破滅的につまらないので却下。座布団の代わりに議席剥奪もの。

5 議事録全部公開したら良いと思う
 最後に感想。他の誰かも言っていたが、櫻井よしこ研究所(という名前ではないが名前忘れた)は、問題の日のディスカッションの議事録と録画を全部公開したらどうだろうか。きっと目くるめく世界が広がっていて(これが皮肉的な反語)、擁護論の一部にあるように、麻生の発言は、会議の中ではむしろブレーキ役である可能性もあると思う。まあ、しないと思うけど。
posted by ナベテル at 19:58| Comment(285) | TrackBack(1) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月19日

ていうか、軍靴の音、聞こえてきません?

 ネット上の同世代近辺の議論では、自衛隊の軍事的な膨張を心配する議論に対して「軍靴の音が聞こえますねw」的にニヒルな対応をするのが一つの型になっている。しかし、最近の自衛隊周辺の増長、それを利用・奨励する政治家の言動は目に余るものがあると、個人的には感じている。

22DDH「いずも」は航空母艦
 今、日本国は、数千億円の予算を掛けて「22DDH」という“護衛艦”を作っている。この船は最近、艦名が「いずも」になることが自衛隊のミスでばれてしまったことでも話題になったが、しかし、その姿や、大きさは、立派な航空母艦だ(この点については2年半ほど前のエントリ「軽空母22DDHはF-35B等の固定翼戦闘機を運用可?」もご参照を)。この船が固定翼の戦闘機を運用できるかどうかは、軍事マニアの間ではホットな話題だったが、最近、有名軍事ブログがその可能性に言及して話題になっている。そして、政府は、B型ではないが、F−35を自衛隊に導入することをすでに決めている。
 自衛隊は「専守防衛」を旨とする組織だったはずだが、いつのまにか、最新鋭の戦闘機を登載し、海外遠征もできる強力な空母を持つようになってしまったのだ。こういう兵器の導入で、中国等の他国が激しく刺激され、更なる軍拡競争に繋がることはいうまでもない。

水増し請求で入札指名停止になっても契約を取れる三菱電機
 今年になってから、しんぶん赤旗に気になる記事が掲載された。「水増し請求で処分の三菱電機 指名停止中、1340億円受注 防衛省は開き直り」という記事だ。詳しくはそちらを読んで貰いたいが、三菱電機が、自衛隊の装備品納入で水増し請求をしたことで、1年間の入札指名停止になったにも関わらず、防衛省が指名停止を無視して随意契約で三菱電機に1340億円もの業務を発注しており、会計検査院が、「ペナルティーが機能していない」と指摘する事態になっている。
 この記事は、共産党周辺でもほとんど注目されたかったと思うが、防衛省と軍需産業が癒着し、国民の税金を食い荒らしていることを象徴的に示している。不正の規模は違約金も含めて495億円と、生活保護の“不正受給”どころのものではないが、それでもマスコミが書かない、書けない状態がすでに出来上がっているのだ。

景気刺激のための防衛費増額
 さらに気になったのが、昨年末の自民党政権発足後の補正予算で、防衛省が「緊急経済対策」として、1805億円もの予算を獲得したことだ。詳しくは「経済対策でPAC3、戦闘機改修も 防衛省が補正に計上」(2013年1月9日朝日新聞)を読んで貰いたいが、「防衛省は今年度補正予算案の緊急経済対策として1805億円を要求し、地対空誘導弾PAC3ミサイルの購入やF15戦闘機の性能向上のための改修といった防衛装備品の整備を盛り込んだ。」とある。
 経済対策で軍需産業から武器を購入するというのは本当に驚きだ。日本の軍需産業が、いつか、トヨタをはじめとする自動車産業のように大きな顔をして「エコカー減税」だの「エコカー補助金」よろしく税金をむさぼる時代が、すぐそこまで来ているのではないだろうか?

武器輸出三原則の緩和
 上記のF−35戦闘機の開発に絡んで、今年の3月、政府が武器輸出三原則の緩和を発表した。日本の戦後の産業発展については、一定の時期までは大企業が戦前の軍需産業に関する技術者を保持し続けていたといわれる。しかし、日本自身が戦争を放棄し、海外への武器輸出も事実上禁止されてきたため、軍需産業が発展せず、大企業も軍需部門に傾斜する方針を捨てた。
 しかし、戦前の零戦や、戦後のトヨタの自動車に象徴されるように、日本の工業力を軍需部門に投入すれば、世界に冠たる優秀な兵器を製造できることは疑いないだろう。武器輸出三原則の緩和は、日本の軍需産業が“世界に羽ばたく”道を開くものであり、軍需産業が国内でもますます増長する伏線になるだろう。

防衛省内での背広組の駆逐
 そこへ飛び込んできたのが「自衛隊運用、制服組に移管 来年度にも、文官部局は廃止」(2013年7月18日朝日新聞)というニュースだ。防衛省には、長らく、自衛隊組織の幹部(制服組)とは別に、文官の背広組が勢力を持っており、背広組が制服組を牽制する役割を担ってきた。今般、自衛隊の運用に関して、この背広組の部局を廃止し、制服組の統合幕僚監部に一本化することになったのだ。これは省令で決めるのだろうから、大臣をはじめとする政治家のOKなしにはできない。
 そこで気になるのは、自衛隊員出身で、防衛政務官を務めている佐藤正久議員(ヒゲの佐藤)である。この人物は、イラク戦争時に派遣された自衛隊の幹部として名をはせたが、初当選の2007年の参院選前に、近隣で活動しているオランダ軍が紛争に巻き込まれたらわざと駆けつけて自衛隊員の「正当防衛」の状態を作り出し、戦闘に参加するつもりだった旨を述べている。
 イラクへの自衛隊派兵は、そういう危険がない建前で行われていたのに、ヒゲの佐藤氏はわざと法律を破るような事態を作り出し、憲法9条以下の規制をぶち壊そうとしていたのである。
 今、こういう政治家の存在を背景に、防衛省自体が変質し始めているのだ。

情報保全隊による市民運動の監視
 このように、自衛隊が軍事的にも、権力的にも膨張していく一方、それに反対する勢力に対しては「情報保全隊」なる部隊を組織し、違法な情報収集をしている。これも以外と知られていないが、2012年3月26日、仙台地裁は、共産党議員の活動や街宣、市民の反戦ライブやビラ撒きまで、記録していたことについて、違法とし、国に対して慰謝料の支払いを命じた。詳しく知りたい方は裁判所のホームページで判決の原文をどうぞ→こちら
 (例え自衛隊に反対していたとしても)国民を守る使命を持っているはずの自衛隊が、事もあろうに、違法に国民を監視していたのだ。そして、裁判所に違法と言われたも、国民の監視活動を止めてはいないだろう。これなど、戦前の憲兵隊復活まであと一歩のところまで来ているのではないか?

集団的自衛権の緩和、恒久派兵法制定の動き
 その他にも、政府・自民党周辺では、憲法9条が集団的自衛権の行使を禁じていることから、それを緩和しようとする動きや、自衛隊を「〜特措法」がなくてもいつでも海外派兵できる法律を作ろうとする動きもある。

背後にある自民党の政治家の発言
 以上、米軍との関係や、体系的な政策との関係などは深く考えず、現象として見える点で覚えていることを羅列してみた。そして、このような自衛隊の膨張を背後で支えているのが、憲法9条改憲を主張する安倍首相や、司法権が及びにくくして、自衛隊を司法権から解き放とうとする「軍法会議」の設立を訴える石破幹事長ら、自民党の幹部政治家なのである。彼らは単に過激な発言をしてアドバルーンを上げるだけではなく、憲法9条を変える前から、現実世界を改憲後の世界に近づけるための“たゆまぬ努力”を、日々しているのだ。

はて、日本国民は軍隊の暴走を止める力を持ってたっけ?
 今や誰も見向きもしないが、民主党政権だった頃の政治スローガンは、「政治主導」「脱官僚政治」だった。しかし、この主張は結局上手く行かなかった。つまり、日本国民も、政治家も、憲法に「行政権は内閣に属する」と明記されているのに、文民の官僚組織ですらコントロールできなかったのだ。だから、憲法で「国務大臣は文民でなければならない」、と言ったところで、憲法に軍隊の存在を明記し、ヒゲの佐藤氏みたいに確信的に法律をやぶろうとする人が自衛隊や「国防軍」を除隊した後に大臣になれるのであれば、単体でどこまで抑止力になるかは心許ない。
 かつて日本国民は、一度、軍隊のコントロールに失敗して自滅した。陸軍の暴走により満州事変が起こり、盧溝橋事件後に日中戦争に突入していき、日米開戦も止めることができなかった。忘れてはならないのは、その暴走により、日本国民は多数の他国民を殺戮するとともに、自国内でも、苛烈な弾圧が行われ、表現の自由が奪われ、沢山の人々が亡くなったという事実である。極めつけは、すでに敗戦が決しているのに、軍人の政治家が国民を犠牲にする徹底抗戦を主張し、原爆を二発も投下されて、自国民が地獄の業火に焼かれるまで、戦争を終結することすらできなかった。国民生活は圧迫され、食べるものすら食べられないのに、鍋釜まで差し出さなければならなかった。諸外国を見ても、民主主義のお手本となるような幾分かの国を除けば、軍の膨張が国民の生活や命を圧迫する危険がどこにでもある。
 日本国憲法は、そのような反省に立って、戦争を放棄し、戦力を持たず、自立した軍隊の存在を認めず(従って司法権から自立した軍法会議の存在も認めず)、国務大臣に関する文民条項を置くなど、幾重にも軍隊を縛る規定を置いたのである。そして、それを実施する下位規範として、防衛庁を独立した「省」にさせず、武器輸出を禁止し、非核三原則を作り、防衛費GNP1%枠を設け、自衛隊を海外に出さないなどの厳しい規制を置いてきたのだ。
 いま、これら、軍隊を拘束する規制が抜け道だらけになってガタガタになっている。そういうなかで、日本国憲法は、軍隊の暴走を止めるための最後の砦になっている。最後の拘束具が外されたとき、官僚政治すら止められない日本国民は、軍隊の暴走を止められるのだろうか?大正デモクラシーを経た政治の強者たちが止められなかった軍隊を。私たちは北朝鮮の“裸の王様”をせせら笑うが、軍が暴走し、国民が餓死寸前で、不満分子は粛正される彼の国は、たかだか70年前の、自分たち自身の姿だったのではないのか?
 現に自衛隊が暴走しはじめていること、憲法9条がなくなれば軍隊を止める最後の拘束具がなくなり、止める根拠すらなくなることは、日曜日の選挙でも、その後の政治でも、今後、ずっと考えていくべきテーマだと思う。ていうか、自民党に入れるその一票に、軍靴の音、聞こえません?
posted by ナベテル at 13:09| Comment(25) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月26日

産経新聞の「国民の憲法」が激しくやらかしている件

 今日、産経新聞が「国民の憲法」なるものを発表した。一見してもの凄いかび臭いにおいが飛んでいるため、筆を取らずにはいられなくなった。

憲法とは何か
 現行の日本国憲法は言うまでも無く憲法である訳だが、ここで言う「憲法」には歴史的に鍛え上げられてきた概念がある。それを余すことなく説明する能力は筆者には無いが、学生の頃、ゼミで教授が口酸っぱく言っていた言葉がこれである。
フランス人権宣言
第16条(権利の保障と権力分立)
権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。
 国家に対する国民の権利保障が確保され、国民の権利を侵害する国家権力の分立(これによって人権侵害の元凶である国家権力自体を弱体化する)が定められていなければ、憲法という名前を名乗っていても、日本国憲法も含まれるフランス人権宣言以来の「憲法」には含まれない、ということなのだ。
 皆さん、学校で勉強したと思うが、日本国憲法の三大柱は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」であり、三権分立もしっかり規定しているから、フランス人権宣言以来の立憲主義の思想を正統に受け継いだ「憲法」であることは疑いがない。

産経新聞の「国民の憲法」の特徴
 産経新聞が自分でまとめ画像を作っているので引用しよう。
産経新聞「国民の憲法」の「特徴」.jpg
 見ての通りだが、産経新聞の「国民の憲法」の12個の特徴に国民の国家に対する権利は何も記載されていない。日本国憲法の三大柱と比べて貰えば、産経新聞の発想がいかにフランス人権宣言以来の立憲主義の考え方から外れているかが分かるだろう。

人権規定もひどい
 これに対しては「改正点の特徴を示しただけで人権はちゃんと書いてある!」という反論が予想されるので、人権規定の総則的な部分だけ検討しておく。
第18条(基本的人権の制限) PDFだがリンクはこちら
権利は義務を伴う。国民は互いに権利及び自由を尊重し、これを濫用してはならない。
2 自由及び権利の行使については、国の安全、公共の利益または公の秩序の維持のため、法律で規制することができる。
 これは「国民の憲法」の人権規定の二番目に登場する重要な条文なのだが、それが「基本的人権の制限」というのはいかにも振るっているではないか。これでは明治憲法が定めた「法律の範囲」での人権と何も変わらない。明治憲法は「外形的立憲主義」とも言われ、フランス革命以来の「憲法」とは似て非なるまがい物なのだが、法律でいくらでも制限できる“人権”がフランス人権宣言で言うところの人権とは相容れないまがい物であることは言うまでも無い。
 なお、「権利は義務が伴う」というのは、権利を行使する国民に対して、国家がそれを受け入れる義務を有している、ということなら正しいが、国民が行使する権利そのものにコバンザメのように義務がくっついているという意味なら、全くの誤りである。

まとめ
 産経新聞の「国民の憲法」なるものが、フランス革命以来の「憲法」から外れたものであり、日本国民の人権を『蟹工船』や、小学館の『まんが日本の歴史』に出てくる「弁士中止!」の時代に逆行させるものであることはご理解頂けたと思う。
 今、国会では国民の参政権を侵害している定数是正が遅々として進まず、自民党が出してきた衆議院の「0増5減」なるものは提案の時点で最高裁の判決に違反していることはすでに周知の事実である。産経新聞は、こんな落書きレベルの憲法草案を提案するくらいだったら、目の前で現に権力者(国会議員)が行っている憲法違反を是正するための選挙制度か区割りの方法でも提案したらどうかと思うが、「憲法、憲法」と声高に叫びながら、目の前の憲法違反を放置して、こういういかがわしい落書きを提示するところに、産経新聞の産経新聞たる憲法観がよく見えると思うのだ。
posted by ナベテル at 13:34| Comment(31) | TrackBack(1) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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